Wednesday, April 18, 2007

世界中の思想を吟味してつくられた日本思想

日本人の常識やセンス、心得、教えには、神道+道教+仏教+儒教+景教と、様々な要素が入っている。さらに明治維新以後は、アカデミズム崇拝の考えも入ってきた。

 そして戦後は「国連教」とでもいうべきか、国際社会のすることに日本は逆らわずについていかなければいけないという考え方も入ってきた。それらを全部合わせた民間信仰が出来上がっている。

 こうした民間信仰は普通の日本人の共通の常識であり、共通のセンスであって、「宗教」と呼ぶべきかどうかはまた問題がある。

 しかし、いずれにしても日本人はそういう考え方を持っていて、それは新宗教と言ってもいいくらい、世界でも他に類のないものだ。それは、日本が発明した最も普遍的な世界思想だともいえる。

 なぜ普遍的かというと、そこには世界中の思想が材料としてすべて入っているからだ。世界中の「世界思想」をすべて輸入して、それらを混ぜ合わせて、約2000年もの間、同じ民族が咀嚼(そしゃく)し、吟味し続けてきたのだから。そういう思想は世界中、どこにもないと思う。

 日本が特徴的なのは、一神教に支配されなかったことで、一神教は、「我が仏 尊し」だから、他の思想を絶滅させてしまう。だから、一神教の“ウイルス”に襲われた地域は、昔からの思想がすべて消されてしまうのである。

 ところが、日本は一神教の侵略を受けても、大した影響はなかった。これは、日本にやってきた一神教が軍事力を伴っていなかったからだ。軍事力を伴った一神教に占領されて、政治的にも支配されるということが起こると、その民族は心が変わってしまう。その民族の伝統がなくなってしまう。だが日本ではそうしたことが起こらなかった。

日本に合った思想だけを取り入れた日本人


 日本には世界中の思想が入ってきて混ざり合っている。例えるなら、世界思想が何階建てにもなっている。それらを日本人はすべて日本語に直して、生活のなかに取り入れた。よいものを取って、嫌なものは無視した。支配者が持ち込んだ思想ではなかったから、日本人には吟味する自由があった。

 もっとも、いずれかの思想に天皇がかぶれると、役人たちがそれに追随するという動きはあった。だから、カソリックでも、仏教でも、やたらと天皇を取り込もうとした。天皇を信者にすれば国民すべてが信者になるという浅はかな発想だったのだろうが、日本人はそういうふうに一筋縄ではいかない。

 例えば、キリスト教の教えの中にも日本人の心に染みるものもあるし、全然染みないものもある。キリスト教の教えに「山上の垂訓」というのがあるが、それなどがよい例だ。

 キリストが「おまえたち、あくせくするな。明日は何を食おう、何を着ようと思って悩むな。1日苦労したらもうそれでいい。明日はまた明日になってから悩めばいい。神様が何とかしてくれる。野のユリを見よ。野のユリは自分で働いていない。けれども、あんなにきれいじゃないか。それは神様がそうしてくれているからだ。ましてやおまえたち人間は、神様がちゃんとしてくれるから、あくせくしなくてもいい」と、人々に話したという教えだ。

 これは日本人が好きな教えで、同じような話を伝統的に聞いたことがある。日本人にしてみれば、「それなら聞いたことがあるな。儒教にも仏教にもそういう話があったし、神道にもあったな」となる。

 つまり、キリスト教の教えの中でも、日本人が伝統的に持っていた思想に合っている部分がある。

日本の思想は人間中心の人間教


 日本人の心は複雑高度だから、一神教も日本に来ると、溶かされて骨抜きになってしまう。「日本教」とでもいうべき思想があって、それが他の思想を飲み込み、角を取ってしまう。

 いまや、サイエンス信仰や国連信仰もだいぶ咀嚼されている。特に国連信仰はこれからどんどん角が取れて、日本流の考え方になっていくだろう。

 日本人は人間の話し合いによる世界統一の可能性を信じている。神様が世界を統一するのではない。神はいなくても、人間が世界を統一する。日本人の気持ちは人間教である。

 日本の神話にはどこにも「神様が人間を造った」とは書いていない。イザナギノミコトとイザナミノミコトが降りてきたとき、そこにはもう人間がいた。神様が神様を産んだというのが神話になっている。人間は別である。というより、神様が人間的に働いたり失敗したりしている。

 わたしはその方が普遍的な考えだと思う。人間中心の日本的思想が世界を統一した方が、人類は幸せになるのではないかと思っている。

米国は「サラダボール」、日本は「煮込みシチュー」


 数千年の昔から、日本には外国人が小規模で渡来してきた。大規模な軍事力で攻めてくるわけではなく、小規模でやってきた。

 だから日本では、文明・文化は連続していて、しかもそこへ少しずつショックがあった。それを日本人はちゃんと消化する。仏教も、儒教も、景教も、どれもほどほどに消化してきた。これは言ってみれば文化や思想の「鍛錬」である。練磨して日本的思想をつくった。

 米国のことをよく「サラダボール」という。昔は「人種のるつぼ」と言ったが、実態はそうではなく、サラダボールの中のトマトやキュウリと同じで、絶対にお互いに溶け合わないといった意味である。黒は黒、白は白、赤は赤で、それぞれが同じサラダボールの中に入っているのが米国である。

 それに比べて、いろいろな人種や思想が煮込みシチューのように入っているのが中国やヨーロッパ、日本ではないか。こうした解説を聞くことがあるが、わたしもそうだと思う。

 日本は民族として一体になっていて、国民の心は、ほとんど共有された常識によって統一されている。

日本の思想は日本刀のような重層構造


 日本の思想は日本刀のような構造だと思う。日本刀を作るときは「玉鋼」を使う。川から集めた砂鉄を木炭で熱して、溶けたものをたたく。

 鍛造して、たたいて、たたく。すると不純物が端の方に寄ってくるから、それを捨てる。不純物をたたき出して“希望の鉄”にする。それが玉鋼で、これで日本刀を作る。

 そのときは、軟らかい鉄と硬い鉄を重ねる。最初は軟らかい鉄と硬い鉄の2枚を重ね、それをたたいて伸ばして、そして折る。その作業を繰り返すと、軟らかい鉄と硬い鉄が20層くらいの重層構造になる。

 一番外側は硬い鉄にして、中に軟らかい鉄を入れておくとよく切れて、しかもポキンと折れない日本刀になる。

 こうして伸ばした刀身の刃のところだけ焼き入れをして一層硬くする。刀身の方は硬くなってはいけないから、粘土を貼りつけておいて、水にジューッと入れる。それから砥石で研いで刃をつける。

 日本刀は、なんとなく日本民族の精神とよく似ているなと思う。日本の思想は日本刀と同じように、世界のいろいろな思想が入った重層構造になっている。

 キリスト教とか、ユダヤ教とか、イスラム教の、よいところが全部入っている。そして悪いところは入っていない。それが5枚重ね、10枚重ねになっている。

 日本精神の中に入っている世界思想の「よいところ」は、すべて日本人が選んできたものだ。だから、日本人が何を選び取って、何を選び捨てたかという研究をすればいい。外国にはあるけれども日本にはまるでないものを書き出していけば、それは日本人が捨てたものである。いわば日本人の常識やセンスは、人間がこれまで考えたことを煮詰めたエッセンス集なのではないか。

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