Wednesday, April 18, 2007

日本は外国より100年先進国

日本に根付いている仙人風老後の暮らし 日本は、誰が見ても平和である。まず、経済を追求した。世界中の国が今、それを一心不乱にやって追いかけている。日本は既にその次の段階にきているのだから、現在を「不景気」といってはいけない。今、日本人はお金よりも心の幸せが欲しいのだ。  「もっと広いところに住みたい、広いところで遊びたい」という空間消費や、「スケジュールなしでのんびり暮らしたい」という時間消費を日本人は求めている。「それこそが一番の幸福だ」となってきた。  でも、こうした種類の幸福を知らない人がいる。そういう人は、「おれは今、○○をやっているぞ」「次は○○を始めるぞ」「おれが書いたものがあるから読んでくれ」と僕に言ってくる。そういうものはすべて自分のための消費なんだから、わざわざ人に送りつけるなといいたい。自分ひとりで喜べばいい。その境地に達してほしい。  中国ではある境地に達すると「仙人」になる。仙人の「仙」という字は、人へんに山と書く。つまり、人は一通りのことが済んだら、あとは山へ行って、仙人になるということだ。仙人はいろいろな欲を捨てて、かすみを食って生きる。死ぬときがくれば死ぬ。  そういう理想の境地が中国にあって、その概念は日本にも本来、浸透していると思う。ただ、団塊の世代にはあまり浸透していないらしい。それを「俗」という。俗は人へんに谷と書く。つまり俗人は、仙人と違って谷に住む。  日本には以前から、仙人風老後の過ごし方の先例がたくさんある。それと欧米思想との混合物がこれから発生するだろう。日本の老人は、その両方を比べて選べるから幸せだ。「今日は懐石料理を食べよう、明日はフランス料理を食おう」ということができるのだ。  あるいは、「今日は友達と集まって孔子や孟子を読んでみて、明日は文化教室へ行ってスペインの文化を勉強する」ということも可能だ。というように、日本の老人はいろいろなことができるのだ。きっと外国人もうらやましがるに違いない。  また、日本は本の出版点数が多いし、発行部数も多い。そして世界中の本がある。本好きの人には天国といえる。だから、知識を身につけたい人は日本語を勉強すべきだ。要するに、日本は知識社会なのだ。知識を非常に尊ぶ社会であり、“一億総インテリ”なのである。

宗教と社会生活が分離している住みやすい日本


 さらに、日本では技術が進歩している。日本人は研究好きで、研究に取り組むとひらめきが出る。なぜ出るかというと、日本のような風光明媚(めいび)な場所で、親が子どもを甘やかして育てると、それだけで10歳くらいまでは頭がよくなるからだ。この場合、勉強面ではなく、文化的なセンスやクリエイティビティが磨かれる。自分からいろいろやってみて、「できた」と思って喜ぶ心が磨かれるのだ。

 ただし、こうした頭のよさははっきりと見えるものではない。だから、客観的にテストの結果が出ないと「学力低下」が叫ばれるようになる。本来、評価を数値で表現できるような問題はレベルが低いのだ。「ニュートンは何年に生まれたか?」というような、「○」と「×」で結果判定できるようなテスト問題は、結論が出ないことを考えさせる問題よりもレベルが低いだろう。

 また、日本では宗教と政治あるいは社会生活が分離していることも特徴の一つに挙げられる。倫理や道徳の方に、宗教があまり入ってこないのだ。つまり、人々には心の自由があるのだ。そんなことは、日本ではみんなが「当然だ」と思っていて、普段は考えもしないだろう。でも、それはなかなかすごいことなのである。外国で暮らしてみると、それが分かる。

 例えば、オーストラリアにはイギリスの古い宗教的習慣がそのまま入っていて、今も残っている。だから、シドニーなどの都会を除けば、日曜日の午前中は街中がシーンと静まり返っている。みんな、家と教会との往復以外は出歩かないそうだ。それ以外の用事で出歩いていたら、後ろ指を指されてしまうらしい。

 でも、その中で歩いている人がいる。「あの人たちはどうして出歩いているのか?」と聞くと、中国人だという。「彼らはキリスト教徒ではないから出歩いてもいいが、最近そういう人たちが増えてきて、街が乱れている」と教えてくれるのだ。それでも、中国人が出歩くのも悪いことばかりではないらしい。「日曜日のランチとディナーは、中国人の店で食べるから」だとか。中国人が来たおかげで、日曜日にも外食できるようになったというわけだ。

 そういう観点からすると、違う宗教の人が混ざっている方がいいことになる。一元化ではなく、多元化の方がよい。突きつめると「価値の多元化」と「相互に認め合う共有化」が必要になってくるわけで、それは日本では当たり前のことだ。外国は今からそれを始めてもあと100年かかる。だから日本の方が100年分先進国である。僕はそんなふうに思っている。僕みたいな日本思想の信者には、「住み心地がいい」というご利益があるのだ。

日本の慰霊と海外の慰霊は意味が違う


 もう一つ、日本の特徴を挙げると、日本には「名誉」がない。「ヨーロッパ的な名誉」は、日本は既に超えているのだ。ヨーロッパ的な名誉とは何か。それは「人よりも強い」とか「おれの方が上だ」というようなことなのだが、日本人はそうではない。

 誰かが褒めてくれればそれでいい。日本人は、褒めてくれれば受け入れるけれど、自分の方から宣言したら値打ちがなくなると考える。そういうレベルまで日本の思想は到達しているのだ。

 最近の話題を実例に出すと、例えば靖国神社の問題だが、僕はこう見ている。日本では、靖国神社にお参りすることを「慰霊」という。これが海外でどういう英語になって伝わっているのか知らないが、霊魂を慰めるのは世界中どこでも同じだろう。世界中どこでも同じことをしているだけだから、その説明をすればあの問題は終わると思っている。

 ところが、外国は「慰霊の中身を言え」と要求してくる。我々日本人は、死者を思い出してあげたら、もうそれでいい。慰霊の中身は、あえていえば「忘れていません、今日も会いに来ました」というようなことでしかない。

 でも欧米人の考える慰霊の中身は、名誉の回復であったり、名誉の保持であったり、その確認であったりするのだ。「あなた方は犬死にしてかわいそう」などというのは、慰霊ではないわけだ。欧米では「あなた方が命を投げ出して守ったものを私は尊敬しています」「それを引き継いでいきます」と誓わなければいけない。その誓いが慰霊なのだ。そういう違いを、みんなが忘れている。

あと10年経てば日本的精神が認められる


 靖国神社の隣に、偕行社という陸軍軍人のOB会のビルがある。そこでは、体つきの頑丈な元陸軍軍人が働いている。彼らとの雑談で「慰霊とは何ですか」と聞くと、「先祖に頭を下げて思い出してあげることだ」といっていた。僕は続けて「では名誉はどうなっているんですか」と聞いたら、みんなびっくりしていた。旧日本軍の軍人は名誉のために死んだはずなのだが……。

 日本人はただ思い出すだけで慰霊となる。欧米人はそうではない。死者の名誉を「私は分かっていますよ」と伝えに行くのが慰霊なのだ。そういう“慰霊の中身の違い”を日本人は知らない。でもやがて、欧米人も「名誉、名誉というのは野蛮だ、そんなものは超えてもっと自然な精神に日本人は達しているらしい」と思うようになるかもしれない。

 こうしてみると、「日本人の心」にはいくつものよいところがある。日本人は、礼儀正しい。弱者をいたわる。他人に迷惑をかけない。他人の悪口を言わない。謙虚にする。自分の功を誇らない。プラグマティズムであって、あまり神がかったことは言わない。何かをやるときは精根を尽くす。誰かに言われてやるのではなく、自分の表現として製品を作り、サービスをする。

 これらは日本ではもうすでにやっていることだが、やがて外国から評価されるようになると、さらに自信がつくだろう。あと10年もすればそういう段階に入るはずだ。「金持ちになった」という自信よりも、そういう日本的な精神についての自信の方が、日本人にとってはより根源的な自信となっていくに違いない。




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