「コンプライアンス」をありがたがる風潮はもう終わり
世界の中で日本は「関数」から「変数」に変わった 日本の景気がよくなってきたのは底力があるからなのだが、ではその底力とはどんなもので、底力を発揮するとどうなっていくのか。まず第1段階として、日本は自信を持つようになった。はじめは経済的自信からで、それがやがて他の分野に広がっていく。 そして第2段階では、外交・防衛でも日本の国益を中心として底力が発揮されるようになった。そうすると意外なことに、アメリカが変わる。中国も変わる。つまり“日本には影響力がある”ということが分かって、第2の自信が付く。 さらに第3段階として、今度は世界の方が日本の意見を求めるようになる。ただ意見を求めるだけではなくて、日本の決意を聞いて、その決意を行動にどう移すかということまで求められる。世界の方が対応するのだ。つまり日本は世界の中で「関数」でなくて「変数」になる。そうなるのはいつごろかというと、僕は意外に早いと思っている。 それでも、国民の認識はいつも5年くらい遅れている。新聞やテレビや学者が遅れているからだ。それは彼らが臆病だからで、分かっていてもそこまで踏み込まないのだ。踏み込もうとしていても、記事や番組などは少し前の段階で制作されるから、国民はたとえ最新ニュースを見ていても遅れてしまうわけだ。 日本の景気回復は、もう2年前から始まっている。実感しない人は、何もしないから感じないのだ。「いや、ここまではできません」と理屈を言っているからであって、どんどん実行している人は景気回復の手応えを感じているし、儲けている。 ただし儲けていることは人には言わないだけ。それでも、見ていれば分かることで、設備投資は始まったし、雇用も正規雇用を増やしている。それらは今既に統計に出ている。そういう人も口では「まだ不景気です」と言っているけれど、設備投資という行動を起こすということは、彼らが「あと4~5年は大丈夫、この機械は元が取れる」と思っている証拠なのだ。
日本式出世は「功労に報いる」システム
人材採用でも、パートではなく正規採用するわけだから、20~30年を見越しているわけだ。時間をかけて自分の会社で教え込む自信がなければ、パートにして、時給を払って「仕事は買う」が「人間は買わない」とやればいいわけだから。 それがアメリカ式だが、そうではなくて未来に期待するようになると、人間ごと買うのだ。“君は全力投球でやってくれ。会社側が命令できないようなところまで自分で行ってくれ”と。それはかつての日本型雇用関係のよいところだといえる。 アメリカ式経営には、あまりそうした考え方がない。上役には命令する能力があって、仕事を評価する能力もある。だから成果主義を導入する。年功序列賃金は形式的でよくないという。そういうアメリカ式をやった会社はほとんど赤字になってしまった。場当たり的だったのだ。 ニュートンに向かって「引力を発見せよ」と命じた課長はいない。「上役万能論」というのは、アメリカのような移民の寄せ集めの国で、部下の能力はあまり期待できないという前提の下にやっている経営形態であって、日本はだいたい部下のほうが上役より賢いのだ。 日本では上役は功労者なのだ。日本における出世は“功労に報いる”というシステムで、そうすると部下はそれを見て仕事に励むわけだ。「おれも偉くなったら料亭に行って、ゴルフをしてもいいらしい。それを楽しみに頑張ろう」ということだ。
真実は中間にある。日本の役人くらいよく働く人たちはいないのだ。だから国会議員はすべてを役人に頼ってきた。つまり、役人を一番尊敬しているのは国会議員なのだ。国会議員は、役人がいなくなったら自分は職務を全うできないと、自分で分かっているのだ。それなのに彼らは選挙区へ帰ると役所の攻撃ばかりやっている。
僕は公平に見て、日本の役人は世界一で、立派だと思う。なかには変な人もいるけれど、おしなべてあんなによく働く人はいない。それを変な方向へ向かせている国会議員が悪い。それから、変にたたく新聞が悪い、と思っている。
その役人たちに「なぜそんなに働くのか」と問うと、「天下りが楽しみだから」という。となると、天下りをなくすとすべてがガタガタに崩れるのだ。今、実際にそうなりつつある。だから僕は「適切な天下りのシステムを考えろ」と言いたい。
こんなことを言ってもどの新聞も載せてくれない。そうしている間に3年くらい経てば、役所は骨抜きになっていく。役人にも、何か楽しみがなければダメなのだ。“ご褒美”が必要な時代が来るだろうと思っている。
対等な相手に「コンプライアンス」とは言わない 日本は前述したような3段階で自信を回復し、やがて世界をリードする国になるであろう。日本には、まだ発揮できていない底力があって、今までは金儲けくらいだが、これからは世界を仕切るようになる。思想で世界をリードする日本が登場してくる。 そんな話は聞いたことがないはずだ。それは、ほとんどの学者が欧米かぶれしているからだ。欧米かぶれしていない学者は、明治時代の古本を読めばいい。そんなことはいっぱい書いてある。一刀両断で「それはダメ」というのが戦後の教育、特にアメリカの教育だった。日本人はもともと謙虚が好きだから、自分で自分を褒める議論はたちまちなくなってしまった。 最近、やたら変な英語を使う人が多くて困る。例えば「コンプライアンス」という英語をみんなが使うけれど、辞書を引いた人が何人いるだろう。辞書では「コンプライアンス」は「法令順守」と訳されている。でも今、日本で使われている「コンプライアンス」という言葉は、本当にそういう意味だろうか。 「コンプライアンス」には、「従順」という訳語がある。周りからの声に対して従順なこと。その次に「卑屈」と書いてある。そこまでの意味があるのだ。だから、アメリカ人同士で「コンプライアンス」なんて言葉は普通は使わない。対等な相手には言わない。言うときは、エンロンのような出来の悪い会社に向かって言うのだ。つまり、目の前の人や友達には使わない、大変失礼な言葉なのではないかと思う。 さらに辞書を読むと、物理学用語として、「外部からの圧力で内部に歪みが出来ること」とある。「歪み」を示す言葉なのだ。会社で社長が「コンプライアンスだ、法令順守だ、みんなやれ」といったら、会社の中に歪みが出来てしまうわけだ。外ばかり気にして、会社自体の方向性がどこかへ行ってしまう。 そうすると部下たちも「役所の検査を通りました、これでいいんです」となってしまうのだ。だから「コンプライアンス」などという言葉は、賢明な人は使ってはいけないと思う。 主体性がなくなる。独自性がなくなる。自信がなくなる。周りに流されるようになる。これらはアメリカでは一番恥ずかしいことなのだが、日本ではそうでもなくて、「従順で謙虚なのがよい」という思想がある。 その「思想」の面だが、アメリカは日本に対して「コンプライアンス」というのだろう。これは「日本は生意気だ」という意味なのだ。「アメリカの言うことを聞け」というのを上品に言っているだけなのだ。 もし僕に向かって「コンプライアンス」といったら、僕は「ふざけるな、どう言い返してやろうか」と考えるけれど、たいていの人は「お、コンプライアンスという英語をおれは知ってるぞ。おれはちゃんと勉強したからな。日本へ帰ったら使ってやろう」となってしまう。ここ10年、そういう現象が日本中を吹き荒れていた。だがそれも、そろそろ終わりだろう。
日本式出世は「功労に報いる」システム
人材採用でも、パートではなく正規採用するわけだから、20~30年を見越しているわけだ。時間をかけて自分の会社で教え込む自信がなければ、パートにして、時給を払って「仕事は買う」が「人間は買わない」とやればいいわけだから。 それがアメリカ式だが、そうではなくて未来に期待するようになると、人間ごと買うのだ。“君は全力投球でやってくれ。会社側が命令できないようなところまで自分で行ってくれ”と。それはかつての日本型雇用関係のよいところだといえる。 アメリカ式経営には、あまりそうした考え方がない。上役には命令する能力があって、仕事を評価する能力もある。だから成果主義を導入する。年功序列賃金は形式的でよくないという。そういうアメリカ式をやった会社はほとんど赤字になってしまった。場当たり的だったのだ。 ニュートンに向かって「引力を発見せよ」と命じた課長はいない。「上役万能論」というのは、アメリカのような移民の寄せ集めの国で、部下の能力はあまり期待できないという前提の下にやっている経営形態であって、日本はだいたい部下のほうが上役より賢いのだ。 日本では上役は功労者なのだ。日本における出世は“功労に報いる”というシステムで、そうすると部下はそれを見て仕事に励むわけだ。「おれも偉くなったら料亭に行って、ゴルフをしてもいいらしい。それを楽しみに頑張ろう」ということだ。
役人にもご褒美が必要な時代が来る
これは官庁においては天下りシステムに当たる。今、官庁の悪口をいえば何でも通るから、学者も誰もみんな寄ってたかってボロクソに言っている。「官庁は非能率的である」「非倫理的である」「国民を無視している」……。官庁にどんな批判をしても、今はどこからも反対されない。だが、10年前は多くの学者が役所のことを崇め奉っていたのだ。真実は中間にある。日本の役人くらいよく働く人たちはいないのだ。だから国会議員はすべてを役人に頼ってきた。つまり、役人を一番尊敬しているのは国会議員なのだ。国会議員は、役人がいなくなったら自分は職務を全うできないと、自分で分かっているのだ。それなのに彼らは選挙区へ帰ると役所の攻撃ばかりやっている。
僕は公平に見て、日本の役人は世界一で、立派だと思う。なかには変な人もいるけれど、おしなべてあんなによく働く人はいない。それを変な方向へ向かせている国会議員が悪い。それから、変にたたく新聞が悪い、と思っている。
その役人たちに「なぜそんなに働くのか」と問うと、「天下りが楽しみだから」という。となると、天下りをなくすとすべてがガタガタに崩れるのだ。今、実際にそうなりつつある。だから僕は「適切な天下りのシステムを考えろ」と言いたい。
こんなことを言ってもどの新聞も載せてくれない。そうしている間に3年くらい経てば、役所は骨抜きになっていく。役人にも、何か楽しみがなければダメなのだ。“ご褒美”が必要な時代が来るだろうと思っている。
対等な相手に「コンプライアンス」とは言わない 日本は前述したような3段階で自信を回復し、やがて世界をリードする国になるであろう。日本には、まだ発揮できていない底力があって、今までは金儲けくらいだが、これからは世界を仕切るようになる。思想で世界をリードする日本が登場してくる。 そんな話は聞いたことがないはずだ。それは、ほとんどの学者が欧米かぶれしているからだ。欧米かぶれしていない学者は、明治時代の古本を読めばいい。そんなことはいっぱい書いてある。一刀両断で「それはダメ」というのが戦後の教育、特にアメリカの教育だった。日本人はもともと謙虚が好きだから、自分で自分を褒める議論はたちまちなくなってしまった。 最近、やたら変な英語を使う人が多くて困る。例えば「コンプライアンス」という英語をみんなが使うけれど、辞書を引いた人が何人いるだろう。辞書では「コンプライアンス」は「法令順守」と訳されている。でも今、日本で使われている「コンプライアンス」という言葉は、本当にそういう意味だろうか。 「コンプライアンス」には、「従順」という訳語がある。周りからの声に対して従順なこと。その次に「卑屈」と書いてある。そこまでの意味があるのだ。だから、アメリカ人同士で「コンプライアンス」なんて言葉は普通は使わない。対等な相手には言わない。言うときは、エンロンのような出来の悪い会社に向かって言うのだ。つまり、目の前の人や友達には使わない、大変失礼な言葉なのではないかと思う。 さらに辞書を読むと、物理学用語として、「外部からの圧力で内部に歪みが出来ること」とある。「歪み」を示す言葉なのだ。会社で社長が「コンプライアンスだ、法令順守だ、みんなやれ」といったら、会社の中に歪みが出来てしまうわけだ。外ばかり気にして、会社自体の方向性がどこかへ行ってしまう。 そうすると部下たちも「役所の検査を通りました、これでいいんです」となってしまうのだ。だから「コンプライアンス」などという言葉は、賢明な人は使ってはいけないと思う。 主体性がなくなる。独自性がなくなる。自信がなくなる。周りに流されるようになる。これらはアメリカでは一番恥ずかしいことなのだが、日本ではそうでもなくて、「従順で謙虚なのがよい」という思想がある。 その「思想」の面だが、アメリカは日本に対して「コンプライアンス」というのだろう。これは「日本は生意気だ」という意味なのだ。「アメリカの言うことを聞け」というのを上品に言っているだけなのだ。 もし僕に向かって「コンプライアンス」といったら、僕は「ふざけるな、どう言い返してやろうか」と考えるけれど、たいていの人は「お、コンプライアンスという英語をおれは知ってるぞ。おれはちゃんと勉強したからな。日本へ帰ったら使ってやろう」となってしまう。ここ10年、そういう現象が日本中を吹き荒れていた。だがそれも、そろそろ終わりだろう。
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