お金の面から見ると分かりやすい国際関係
海外債権を持つと立場が弱くなる 次に、周辺にも味方がいなくなる。外交にとっては大変な損だ。そして、そのとき頼れるのは自分の武力だけである。だから国際化する国は必ず軍事大国になる。
なぜかというと、国際化して金を貸すということは、それだけ金がもうかったからであり、技術力や生産力など、いろいろなものがその国にある。それらの力を少しだけ取り立てのほうに回すのだから、その国は軍事大国になる。金も技術もやる気もある大国だから、わりと簡単に軍事大国になる。
その昔であれば、金が余ると海軍を強化した。英国の海軍が世界中の七つの海を回っていたが、それは債権の取り立て部隊だった。米国海軍が世界中を回るのも同じ。1隻で何兆円もかかるけれど、「減らせ」ということにはなかなかならない。
クリントン大統領のときにだいぶ減らしたが、やはり十何隻もの航空母艦がいまもあちこちに配備されている。それは取り立て部隊であり、言ってみれば根本はサラ金の取り立てと同じことだ。つまり、何兆円も金をかけても、ちゃんと見合うのだ。
国際化して金を貸す国は軍時大国化する。これは法則だと思う。軍事大国化への階段を上りたくない人は、横へ外れなければならない。その場合には、国際警察や国際裁判所を強くするというほうへ向かうことになる。つまり、国際社会を共同体として強いものに仕上げる。そうすると、単独で対処しなくて済む。それが国連である。
北朝鮮の問題で迷惑を被っているのは日本なのだが、単独で対応しないで国連決議を採ってから対応すると、格好がつく。そうすると仲間も増える。そういう道を日本は選ぶ。だから「日本はやたら国連が好きだね」と、かつて英国元首相のサッチャーに笑われた。「国連なんて、なんの頼りになるんだね」とサッチャーは笑っていた。
債権国は、国連を好きになるか、軍事大国になるしかない。日本は軍事大国になりたくないから、国連を好きにならざるを得ない。
では、国連をもっとちゃんと強くする方法を真面目に考えなくてはいけない。日本では誰もそのことを真面目に考えずに、米国と仲良く一緒にやればいいと思っている。だが、米国は今、国連を好きなのか。50年前は好きだったが、今は好きではない。
50年前、米国は世界一の債権大国だった。自分で取り立てて歩くのは疲れるから、国連を使ってみんなで圧力をかけようとしていた。だが今は、米国は世界一の債務大国だから、国連はいらない。国連はじゃまで嫌いなのだ。国連から何とかして逃げようと米国は思っている。だから「米国と一緒になって国連で働こう」なんて、そんな話は通用しない。
国連大使を勤め上げてきた人は、建前は「国連を盛り立てて、日本と米国で世界をうまくやっていこう。そのためにわたしは働いてきた」という。だけど、力およばないところがあった。だから常任理事国になりたいのである。
どうやってなるかといったら「援助金をたくさん配れば大丈夫」だという。そんなことではダメだ。「あんた、自分で金を配るのが楽しいだけでしょう」とわたしは言いたい。
今、米国は国連離れを始めている。原因は正義でも人道でもない。自由でもない。民主主義でもない。金だ。
米国は金を借りている国になった。だから国連から離れたい。そういうふうに、お金の面から見ると、国際関係論というのは実にシンプルである。
お金の面から見ると、なぜ単純で分かりやすいのか。お金には思想がないからだ。道徳もない。思想も道徳も、縁もゆかりも人情も、何もないのがお金だ。
お金で国際関係を論じると、前述のように分かりやすい。だが、「金のことだけを考えればいいじゃないか」となると、ホリエモンなどのようになる。
日本人は心が優しくて美しいから、自分だけはそうなりたくはないと思っている。そうなっていないような顔をする。そして、米国だってそうだろうと言い出す。
「わたしはホームステイで米国に行ったけれども、みんな心優しくていい人だった」と言い出すのだ。それは米国でも田舎の人のことだ。
米国には二つある。ワシントンやニューヨークにいる人と、田舎に住む人は違う。米国人も「そうだ」という。「都会の人間は米国人の恥さらしである。本当の米国はわたしのような田舎者である」というわけだ。
日本の外務省にもときどき話の分かる人がいて、そういう人は米国の田舎を回って歩く。米国の田舎を味方につけなければダメだ。いくらワシントンとニューヨークでいいことを言っていてもダメだ。これは戦前から、みんなそう言っているのだが、実行するのが面倒くさい。それでもときどき実行する人がいる。
かつて「戦後最高の駐米大使」といわれた牛場信彦さん(故人)という人がいた。その牛場は、こういう話をしたことがある。
日米自動車摩擦のとき、米国の国会議員が牛場大使のところへ来て、「日本の自動車輸出は、日本のメーカーの方で自主規制してくれ」と言った。そこで旧通産省は勝手に230万台の輸出制限をつくった。
旧通産省がなぜ喜び勇んで自主規制をしたかというと、「230万台」と勝手に米国に言っておいて、「トヨタは○○台、ホンダは○○台」と自分が割り振って威張りたいからだ。
そんなことをするのは国賊だ。最悪、自主規制をするにしても、何らかの対価を取ってやるべきだ。米国は「自由貿易が大事だ」と言っている国であり、その看板を下ろしたくないから「日本の方で都合をつけてくれ。通産省の力で輸出を抑えてくれ」という、まったく理屈の通らないことを言ってきたのだ。
旧通産省がなぜ米国の論理を採用したかというと、「おかげでメーカーに役員を出せたから」と言っていた。米国の威光を借りて、輸出割当制度をつくった。するとメーカーはたくさん輸出をしたいから、天下りの役員を引き受けた。それで喜ぶのは国賊としか思えない。
実は、米国のデトロイトの国会議員が牛場大使のところにやって来て「自主規制をしてくれ」と言ったとき、牛場大使は「米国は自由という看板を捨てるのか」とやり返したという。
「いや、捨てないから、日本の方でやってくれ」と言われ、「米国はそんな汚いことを言う国になったのか。米国がそんな汚い国になったのをわたしは見たくない。日本は自由貿易に従い、安くて良い自動車を輸出しているのだから。デトロイトの会社も、そこの社員も、心を入れ換えて、日本のように働けば済むことだ。ちゃんとお互いに競争しようじゃないか。あなたたちはデトロイトでそのことを伝えなさい」と牛場大使は言ったそうだ。
相手の国会議員は「デトロイトでそんなことを言ったら、石をぶつけられて殺される」というので、牛場大使は「では、わたしが行く。わたしがデトロイトの町へ行って、みんなに働けと伝える。働きますと言うのなら、やり方も教えてあげよう」と言った。
「そんなことをしゃべったら、あなたも石をぶつけられるぞ」と国会議員が言うと、「構わない。わたしは日本の大使だ。それは日本国から月給をもらっているわたしの仕事だ。明日にでもデトロイトへ行くぞ」と牛場大使は答えた。
すると相手の国会議員はしばらく考えて、「分かった、わたしが伝えよう。これは米国の問題だから、わたしがデトロイトへ行って、そう言う。あなたは来なくていい」といった。
それからしばらくして、相手の国会議員からこんな連絡があったという。「わたしが石をぶつけられて、殺されて死んだら、覚えておいてくれ。米国にも1人ぐらいは男がいたと」。
そんなことがあって、結局、日本の自動車メーカーは米国に工場を作って、米国人をよく働くように感化した。
このように、日本にも米国にも骨のあるいい男たちがいたわけだが、マクロな国際関係をお金の面から考えると、お金には道徳も感情も何も付いていないから、話が分かりやすい。
ただし、政治には打算や人情など、いろいろなものがいっぱい付いていて、それらが付いたままでまともに議論しているから、分からなくなる。だから日本人が考える国際関係論やグローバルスタンダードなどは、みんなウエットで、正体不明なものになってしまうのだ。
なぜかというと、国際化して金を貸すということは、それだけ金がもうかったからであり、技術力や生産力など、いろいろなものがその国にある。それらの力を少しだけ取り立てのほうに回すのだから、その国は軍事大国になる。金も技術もやる気もある大国だから、わりと簡単に軍事大国になる。
その昔であれば、金が余ると海軍を強化した。英国の海軍が世界中の七つの海を回っていたが、それは債権の取り立て部隊だった。米国海軍が世界中を回るのも同じ。1隻で何兆円もかかるけれど、「減らせ」ということにはなかなかならない。
クリントン大統領のときにだいぶ減らしたが、やはり十何隻もの航空母艦がいまもあちこちに配備されている。それは取り立て部隊であり、言ってみれば根本はサラ金の取り立てと同じことだ。つまり、何兆円も金をかけても、ちゃんと見合うのだ。
国際化して金を貸す国は軍時大国化する。これは法則だと思う。軍事大国化への階段を上りたくない人は、横へ外れなければならない。その場合には、国際警察や国際裁判所を強くするというほうへ向かうことになる。つまり、国際社会を共同体として強いものに仕上げる。そうすると、単独で対処しなくて済む。それが国連である。
北朝鮮の問題で迷惑を被っているのは日本なのだが、単独で対応しないで国連決議を採ってから対応すると、格好がつく。そうすると仲間も増える。そういう道を日本は選ぶ。だから「日本はやたら国連が好きだね」と、かつて英国元首相のサッチャーに笑われた。「国連なんて、なんの頼りになるんだね」とサッチャーは笑っていた。
債務大国になった米国は国連がじゃま
債権国は、国連を好きになるか、軍事大国になるしかない。日本は軍事大国になりたくないから、国連を好きにならざるを得ない。
では、国連をもっとちゃんと強くする方法を真面目に考えなくてはいけない。日本では誰もそのことを真面目に考えずに、米国と仲良く一緒にやればいいと思っている。だが、米国は今、国連を好きなのか。50年前は好きだったが、今は好きではない。
50年前、米国は世界一の債権大国だった。自分で取り立てて歩くのは疲れるから、国連を使ってみんなで圧力をかけようとしていた。だが今は、米国は世界一の債務大国だから、国連はいらない。国連はじゃまで嫌いなのだ。国連から何とかして逃げようと米国は思っている。だから「米国と一緒になって国連で働こう」なんて、そんな話は通用しない。
国連大使を勤め上げてきた人は、建前は「国連を盛り立てて、日本と米国で世界をうまくやっていこう。そのためにわたしは働いてきた」という。だけど、力およばないところがあった。だから常任理事国になりたいのである。
どうやってなるかといったら「援助金をたくさん配れば大丈夫」だという。そんなことではダメだ。「あんた、自分で金を配るのが楽しいだけでしょう」とわたしは言いたい。
今、米国は国連離れを始めている。原因は正義でも人道でもない。自由でもない。民主主義でもない。金だ。
米国は金を借りている国になった。だから国連から離れたい。そういうふうに、お金の面から見ると、国際関係論というのは実にシンプルである。
お金だけで割り切りたくない日本人
お金の面から見ると、なぜ単純で分かりやすいのか。お金には思想がないからだ。道徳もない。思想も道徳も、縁もゆかりも人情も、何もないのがお金だ。
お金で国際関係を論じると、前述のように分かりやすい。だが、「金のことだけを考えればいいじゃないか」となると、ホリエモンなどのようになる。
日本人は心が優しくて美しいから、自分だけはそうなりたくはないと思っている。そうなっていないような顔をする。そして、米国だってそうだろうと言い出す。
「わたしはホームステイで米国に行ったけれども、みんな心優しくていい人だった」と言い出すのだ。それは米国でも田舎の人のことだ。
米国には二つある。ワシントンやニューヨークにいる人と、田舎に住む人は違う。米国人も「そうだ」という。「都会の人間は米国人の恥さらしである。本当の米国はわたしのような田舎者である」というわけだ。
日本の外務省にもときどき話の分かる人がいて、そういう人は米国の田舎を回って歩く。米国の田舎を味方につけなければダメだ。いくらワシントンとニューヨークでいいことを言っていてもダメだ。これは戦前から、みんなそう言っているのだが、実行するのが面倒くさい。それでもときどき実行する人がいる。
日米自動車摩擦で自主規制を受け入れた国賊
かつて「戦後最高の駐米大使」といわれた牛場信彦さん(故人)という人がいた。その牛場は、こういう話をしたことがある。
日米自動車摩擦のとき、米国の国会議員が牛場大使のところへ来て、「日本の自動車輸出は、日本のメーカーの方で自主規制してくれ」と言った。そこで旧通産省は勝手に230万台の輸出制限をつくった。
旧通産省がなぜ喜び勇んで自主規制をしたかというと、「230万台」と勝手に米国に言っておいて、「トヨタは○○台、ホンダは○○台」と自分が割り振って威張りたいからだ。
そんなことをするのは国賊だ。最悪、自主規制をするにしても、何らかの対価を取ってやるべきだ。米国は「自由貿易が大事だ」と言っている国であり、その看板を下ろしたくないから「日本の方で都合をつけてくれ。通産省の力で輸出を抑えてくれ」という、まったく理屈の通らないことを言ってきたのだ。
旧通産省がなぜ米国の論理を採用したかというと、「おかげでメーカーに役員を出せたから」と言っていた。米国の威光を借りて、輸出割当制度をつくった。するとメーカーはたくさん輸出をしたいから、天下りの役員を引き受けた。それで喜ぶのは国賊としか思えない。
「自由貿易を捨てるのか」と米国に迫った牛場大使
実は、米国のデトロイトの国会議員が牛場大使のところにやって来て「自主規制をしてくれ」と言ったとき、牛場大使は「米国は自由という看板を捨てるのか」とやり返したという。
「いや、捨てないから、日本の方でやってくれ」と言われ、「米国はそんな汚いことを言う国になったのか。米国がそんな汚い国になったのをわたしは見たくない。日本は自由貿易に従い、安くて良い自動車を輸出しているのだから。デトロイトの会社も、そこの社員も、心を入れ換えて、日本のように働けば済むことだ。ちゃんとお互いに競争しようじゃないか。あなたたちはデトロイトでそのことを伝えなさい」と牛場大使は言ったそうだ。
相手の国会議員は「デトロイトでそんなことを言ったら、石をぶつけられて殺される」というので、牛場大使は「では、わたしが行く。わたしがデトロイトの町へ行って、みんなに働けと伝える。働きますと言うのなら、やり方も教えてあげよう」と言った。
「そんなことをしゃべったら、あなたも石をぶつけられるぞ」と国会議員が言うと、「構わない。わたしは日本の大使だ。それは日本国から月給をもらっているわたしの仕事だ。明日にでもデトロイトへ行くぞ」と牛場大使は答えた。
すると相手の国会議員はしばらく考えて、「分かった、わたしが伝えよう。これは米国の問題だから、わたしがデトロイトへ行って、そう言う。あなたは来なくていい」といった。
それからしばらくして、相手の国会議員からこんな連絡があったという。「わたしが石をぶつけられて、殺されて死んだら、覚えておいてくれ。米国にも1人ぐらいは男がいたと」。
そんなことがあって、結局、日本の自動車メーカーは米国に工場を作って、米国人をよく働くように感化した。
このように、日本にも米国にも骨のあるいい男たちがいたわけだが、マクロな国際関係をお金の面から考えると、お金には道徳も感情も何も付いていないから、話が分かりやすい。
ただし、政治には打算や人情など、いろいろなものがいっぱい付いていて、それらが付いたままでまともに議論しているから、分からなくなる。だから日本人が考える国際関係論やグローバルスタンダードなどは、みんなウエットで、正体不明なものになってしまうのだ。
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