アメリカ型の論理が日本の相互信頼社会を打ち砕く
かつて会社は株主のものではなかった
昔、会社の概要にはたいてい「払込資本金」と書いてあった。古い会社の書類には「授権資本3億円、払込資本1億円」などとあったものだ。これは「この会社は3億円の会社だと書いてあるけれど、株主総会でそういう決議をしただけ(授権)であって、まだ株主から支払われていない分があり、払込済みは1億円しかありません」という意味なのだ。すなわち、実質上は資本金1億円の会社である。大正時代に、商法に特例を設けて、払込資本金は3分の1でよいとした。だからそうした会社は、正確な意味での資本主義の会社ではない。定めた通りの資本がないという、不思議な会社だったのだ。
これは、そのころは株主などはどうでもいいと思っていた証拠といえる。株主のほうも、資本金を3分の1しか払っていないのだから、威張れなかったのだ。残りの足りない部分は、銀行からの借金となる。あるいは金持ちであれば自分のカネを会社に貸した。親類縁者からカネを集めて貸したりしていた。
「出資」と「融資」の違いは何か。「出資」とはそのお金がなくなれば何も戻ってこないが、「融資」なら担保を取り戻せるというものだ。昔の株式会社では、融資を受けるときに担保になったのは、だいたいが機械だった。アメリカから輸入した機械などを担保にして銀行からカネを借り、これを一生懸命返すというようなケースが多かった。お金を銀行に返している間は、従業員は粉骨砕身、残業して、給料は安くても我慢した。返し終わったら、従業員は“この機械はおれたちのものだ”と思う。おれたちが安月給で働いたおかげで借金を返せたのだから。
当時の機械というのは、だいたい20年から30年は使えたから、従業員のライフサイクルとちょうど合っていた。最初の10年間は安月給で働いて、会社が銀行からの借金を返済し終わると、その機械は完全に会社のものになる。それでも機械はまだ動くから、あと10年から20年は利益が出る。もう会社は銀行に借金を返さなくていいし、利息も払わなくていい。そうなると機械は古くからの従業員のもの、すなわち“おれのものだ”という発想があった。従業員たちがそう思っていることを、創業者社長もわかっていた。そこでどうなるかというと、「みんなよく働いてくれたから、この機械を売って君たちの退職金にするよ」となっていた。
それなのに、ライブドアの堀江貴文社長(ホリエモン)が言ったようなアメリカ型資本主義の論理だと、「この機械は全部株主のものです」となってしまう。だから従業員たちは「エーッ」と驚く。それを裁判所に持っていっても、「法律通りに解釈すると、機械は株主のものである」ということになる。そういう経緯をたどって、ニッポン放送の社員約270人は「それなら辞めてやる」といい、フジテレビが彼らを全員引き取ってホリエモンにはもぬけの殻をつかませてやる、という話になった。
でも、約270人全部が辞めてくれたら、ホリエモンは大喜びなのだ。ラジオ放送の免許だけが残り、人間がいなくなってくれるのが、ホリエモンにとっては一番いいんじゃないかなと僕は思う。ホリエモンから見れば、その270人はろくろく働いていない。クビを切らなくて済むから、いなくなってくれたほうがいいわけだ。
「裁判のための裁判」が始まっている
こうした「日本の現実」と「法律」との食い違いがあるケースを裁判所に持ち込むと、裁判所の判事も問題となってくる。判事には「法律一本やりの秀才判事」と「日本の社会を知っている判事」の2通りがいる。前者は理論主義、後者は現実主義の判事だ。そのうちのどちらの判事に当たるかは、これはもう「運だ」としかいいようがない。
簡単に言うと、事件が持ち込まれたときに、まず新聞やテレビの報道をよく調べるのが現実派・民俗派の判事。まず六法全書を広げるのが理論派の判事だ。そのどちらの判事に当たるかによっても、判決が大きく変わってくる。とくにM&Aの問題などについては、今はまだ混乱期だから、まだまだこれから判決は変わると思う。判事の責任にばかりせず、法律をきちんと整備すればいい。「まさかそんなやつはいないだろう」というくらいまでカバーして、法律の穴をふさぐこと。それは立法、すなわち政治家の仕事である。
何でもかんでも裁判するようになると、結局みんな損をすることになる。お金をもうけるのは弁護士ばかり。どうして弁護士商売がアメリカではやるか。それはみんなが裁判を起こすからだ。あまり想像したくないが、日本でもこれからはやるだろう。
さらにもう1つ、裁判を起こされたときのための用心も必要になってくるわけだ。株主が経営者を相手に裁判を起こすようなことは昔はなかったから、経営者もその点は気楽にやっていたのだが、アメリカからそういう流行が上陸してきた。株主に裁判を起こされると経営者は困る。そのときの用心のために、自分の身の回りにある債権債務関係を全部裁判所に持っていってケリをつけておく。そうすれば、将来に対して、「裁判所が決めたことだから」と言えるわけだ。
だから、まったく必要ない弁護料を弁護士に払って、負けると決まっていても、それでいいのだ。将来、裁判所に「負けたからこうなったのです」というために、裁判を起こしたり起こされたりして、判決をもらっておく。そういうようなことがもう始まっていて、だんだんと広がってきている。
慰謝料よりも詫び状を要求される不思議
以前に僕は著書の中で「日本人は何でもきちんと仕上げをやる」という話を書いた。その中で、エレベーターの話を出した。到達階の床とエレベーターの床とは、外国では数センチの段差があることが多いのだが、日本の東芝や三菱のエレベーターは1ミリも段差がない。そんなにしなくてもいいのではないか、と思うくらい、誤差は厳しく調整しているのが日本のメーカーの自慢だという話だった。そして、エレベーターの老舗であるオーティスという会社のことにも触れた。
オーティスは、アメリカで開かれた万国博覧会で、世界で初めてエレベーターというものを出品したメーカーなのだが、かつてオーティス製エレベーターも欧米の常識に従って1~2センチメートル程度の段差があった。ところが、日本のメーカーは煙突のようなエレベーター試験塔を建てて研究開発し、段差のない超高層用のエレベーターをつくった。このように、「仕上げに凝る」という部分では日本が世界をリードしている、というのが僕の文章の主旨だった。
ところが、オーティスの日本支社長から電話があって、オーティスを侮辱したとか、営業妨害したとか、名誉毀損したとかいわれた。彼は日本人だったが、「日下さん、詫び状を書いてくれ」というのだ。「慰謝料を出せというのではないのですか?」と聞くと、「そこまでは言わないから詫び状をもらいたい」と返事が返ってきた。
僕としても、そう簡単に詫び状を出すわけにもいかない。そこで、「日本には言論の自由があるし、さらには相手を妨害したり損害を与えようというような意図ではなく公共の福祉のためという気持ちで僕が書いていて、そしてそれが事実ならば、営業妨害とか名誉毀損とかにはならない」と押し返した。そうこうやりとりしているうちに、向こうが泣き言をいうようになった。「書いてくださいよ。日下さんとこんなことをやっていると、弁護士に弁護料をたくさん取られて、我が社は大損害なんですから」と。それならこんなことをやめればいいのに。
結局のところ、アメリカ本社から何かを言われたときに、「日下さんから詫び状を取ってあります」というのを見せたいだけだったのだ。それならかわいそうだからということで、僕も詫び状を書いてあげた。
こんなものは、今までの日本であれば、社長が株主に対して説明すれば終わる話だ。ところが得体の知れない株主が、攻撃のための攻撃をするような状況があり、会社もそのためにバリアを張る。そういうシステムになると、何事も弁護士を使って裁判所に持ち込み、命令を出してもらう必要が出てきてしまう。これは無駄なコストになる。
つまり、日本のような相互信頼社会はコストが安いのだ。アメリカのやり方では、それを壊すことになる。アメリカ国内はそれで困っているから、日本も同じように困らせてやる。そうすると競争条件が同等になる、とアメリカは考えている。
それに対しては、やはりこちらも勉強して、反論しないといけないだろう。まず日本国に合う民法と商法に改正して、向こうがグローバルスタンダードとか国際常識とかいってきても、断じて日本はこれで行くんだと言わなければならない。民法に国際常識など絶対に存在するわけはないのだから。「結婚とは何ぞや」などということは、国によって違って当たり前なのだから。
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