Sunday, December 18, 2005

公共機関の権利独占をやめさせて、悪循環から抜け出そう

国の買い上げをやめれば教科書問題は解決する


 「教科書問題」が一時期、世間を騒がせた。これはまず教科書の内容が問題となった。内容は教育委員会が決めて、文部科学省は検査だけする。その検査に合格すれば、あとは各地の教育委員会が採用する。しかし、チェックが機能しないままに50年も経つと、あちこちおかしくなってくる。そこで、評論家の西尾幹二さんら「新しい歴史教科書をつくる会」が、“これなら偏りがない”という新しい教科書を作って出版した。その教科書には多くの人が共感したが、教育の現場には採用されていない。

 なぜか。実は背景には、教科書会社のビジネスがある。教科書はものすごく儲かるのだ。教育委員会に採用されれば、中身を毎年ほとんど変えなくても、まとめてたくさん買い上げてくれるわけだから。そこで教科書会社は、教育委員会の委員の子息を社員に採用する。教科書会社に入社した子息は、親に「うちの会社の教科書を採用してください」という。こういう構造になっているそうだ。

 これを根本的に直すには、教科書を国が買い上げて、無料で子供に渡すというシステムをやめればいい。私たちの世代が子どもの頃、教科書は買うものだった。先生に「来年の教科書はこれとこれだから、明日85銭持ってきなさい」などと言われたものだ。85銭といっても、当時はうどん1杯が7銭の時代だから、かなりの金額だ。家で親が「教科書を買わなきゃいけない」とヒソヒソ相談している。それを聞いた子どもは「勉強しなくちゃいけない」と思う。「親が買ってくれた教科書だから、隅から隅まで読まなきゃいけない」と思うのだ。

 それが今は、学校がタダでくれるのだから、ありがたみがない。やはり親がお金を払ったほうが、親の権威がつく。子どもも親に対して、ありがたいと思う。わが家のお金だと思えば粗末にしなくなるだろう。それに、教科書会社のビジネスがどうのという話もなくなるはずだ。それから、文部科学省に対しては、親が文句をいうようになるだろう。「こんなもの買わせやがって」と。今はタダだから、文句をいわない。

 だから、教科書を国が買い上げていることが、教科書問題の諸悪の根源だと思う。国や教育委員会が教科書採用権を独占していることと、無料で配っていることがいけない。でも、今のところそういう議論は出てこない。10年以上前は出ていたが、今は誰もいわなくなってしまった。

 それは、教科書会社は今のままがいいし、文部科学省の役人も今のままがいいし、親もタダのほうがいいから。裏を返せば、税金を払っている人は損をしているともいえる。だから本来ならこうしたことに対して、税金を払っている人が怒らなければいけない。教育制度改革はどうあるべきかという議論をするから、いつまでも議論が終わらないのであって、教科書を親が買う仕組みに変えて、教科書代を払う親の意見を聞けばいいのだ。教科書問題にはそういう答えがあると思う。

放送免許の制限がライブドアとフジテレビ問題の元凶


 ライブドアの堀江貴文社長(ホリエモン)がフジテレビを狙ってニッポン放送にM&Aを仕掛けた事件でも、各テレビ局の報道は中途半端なものだった。「ホリエモンだか楽天だか知らないけれど、それはけしからんと思うが、どうも彼らの言い分も正しいのかもしれないし、時代が変わったのかもしれない。結局、これは裁判所が決めてくださるはず。だから、裁判所がなんというのかだけを報道しよう」という姿勢だった。

 自分たちの意見は言わないで、裁判所の周りに群がって、それに対する批評を適当に集めてきて紹介するわけだ。テレビ局はずるい。報道解説などもないから、公共的な使命を果たしていない。だから、ホリエモンに凄まれたら、すぐにへこんでしまったのだ。「放送局には公共性がある」とテレビ局がいった途端に、ホリエモンは「何を言っているか。テレビ局は視聴率を目的にして、私をおちゃらけ番組ばかりに出しやがって、どこに公共性があるんだ」と批判した。そうしたらテレビ局は黙ってしまった。

 そして、「企業は企業価値を高める必要がある、株主は企業価値に関心があるんだ」とか、テレビ局の報道はそんな内容ばかりになった。では、ライブドアの標的とされたフジテレビにとっての、企業価値とは何か。それは簡単で、放送免許なのだ。問題は、民放キー局の放送免許が5社にしか出ていないこと。これを10社か20社に出せば、値段は暴落するはずだ。

 なぜ5社にしか出ていないのか。それは、ずっと郵政省が出し渋ってきて、それで恩を売り、天下りをして、接待を受けていたからだ。郵政省は放送免許を取り消す権利を持っているから、テレビ局の人は接待しなければならない。郵政省の役人は「お前のテレビ局はろくなことをやっていないから、今年でおしまい。来年は他へ免許を移す」という権限を持っているから、いばって接待を受けている。そのことのほうがよっぽど公共性がない。

 放送免許が今のように出し渋って半独占状態であるなら、そこに価値がある。ホリエモンはそれを買おうとしたのだろう。狙われたのはただの免許なのだから、免許を乱発すればいいのだ。役所が免許制にして、出し渋って、自分たちが甘い汁を吸うという構造から発生した事件なのだから、行政的にはそれで解決したはずだ。

日本の「商法」は外国人向け

 では法律的にはどうなるか。裁判所は、ホリエモンのしたことは「違法でない」などという。「それならそうか、仕方がない」とみんな思うようだが、それでも腑に落ちないところもある。「日本における会社は本来そんなもんじゃない、法律のほうがちょっと杓子定規なんじゃないのか」と。心の中ではそう思っても、「それがグローバルスタンダードだ、商法にもそう書いてあるじゃないか」と言われると、みんな黙ってしまう。

 これは根本的問題で、商法が間違っているのだ。本来、商法は外国人に見せるために書き上げたものであって、外国人を安心させてお金を借りるためのものなのだ。日本人には商法はその通りには適用しないというのが、明治、大正時代の当然の前提だったのである。

 それはもともとは不平等条約に端を発している。ペリーが来航したとき、「お前の国は野蛮国だから」という理由で、外国人だけに特別有利な条件を押しつけた。「野蛮国ではなく文明国です」と説明するのに時間がかかってしまうから、「はい、あなた方と同じ法律です」と、ヨーロッパの商法をそっくりそのとおり翻訳して、見せた。「日本国商法も同じですから、対等につきあってください。だから投資してください」と。これが商法のそもそものスタートなのだ。

 そうして成立した商法を見て、安心し、アメリカの自動車会社が横浜に自動車工場の原型をつくった。それが現在の日産自動車の始まりだ。東芝も、ゼネラル・エレクトリック(GE)が日本につくった提携工場が母体だ。時間が経って、お金を払ったのだろうが、結局は日本が押収してしまうわけだ。そういう話は世界中どこにでもある。

 だから、「商法」は外人用であって日本人用ではない。日本人にはその通りにできないことが書いてあるわけだ。その通りにやったら社会が壊れてしまうことが書いてあるのだ。もともとグローバルスタンダードなどないことがこれでお分かりいただけよう。


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