Sunday, December 18, 2005

偏差値によって消えたエリートの気骨

以前、中国の大学でイベントをしたとき、ある日本人の大学教授に「日下さん、私はあなたの教え子です」といわれた。僕が「あなたを教えた覚えはないのですが」と答えたら、その人は「以前に海外赴任したときに、日下さんに習った」と教えてくれた。

 海外に住む日本人が増えた十数年前に、当時の文部省(現・文部科学省)が、ニューヨークやロサンゼルス、シンガポールなどに、日本語小学校をたくさんつくった。そこの先生は文部省から派遣された。毎年20人から30人ずつ派遣して、何年か経ったら日本に戻すわけだ。僕はその派遣される先生たちに、海外で勤める心がけを教えたことがあったのだ。

 日本人小学校の先生は、海外といえども日本人の子どもに日本のことを日本語で教えるのだから、仕事自体はそれほど大変ではない。しかし、そうはいっても海外勤務だから、教える子どもたちの両親はどんな気持ちで、どんな環境の中で働いているのかを、僕が教えてほしいという要請だった。本当はそうした両親は、帰国したときに子どもが高等学校に受かるようにと、偏差値のことしか考えていない。しかし文部省としては、やはり日本人の魂を少しは教えておかないといけない、ということらしい。僕は文部省に頼まれて、先生たちの先生をした。

 それに対して1万5000円ほど支払われる。その支払いのために捺印する紙を見ると、「三等職相当」などと書いてある。そこで僕が「お国のためなのでタダでいいですよ」と言ったら、文部省の人は「タダでは困ります」と答えた。僕にしてみれば、そんなものにペタペタと判子を押すほうが、よほどくたびれるし、1万5000円も、もらうほどのことでもない。しかも「三等職待遇」などと扱われるのも、嬉しくない。それでも文部省の人は「私が困ります」と押し付けてくる。

 ではなぜ「三等」なのかと聞くと、「文部省の中の規定で待遇のいいほうにしました」などと答える。バカ野郎、僕は最初から文部省なんかに入らなかったんだよ。そもそも僕の友達の中でもできが悪い人が文部省に入っているんだから。その場ではそこまで言わなかったけれど、だからといって「文部省の規定で三等職になった」といわれてもね。そんなことをやっているから、逆に講師が来てくれないのだ。

僕の教え子だったという中国の大学の教授は、僕にこんなことを教えてくれた。「本当のことを言います。私が今ここで日本のことを教えていると、生徒は本当にびっくりします。だけどこの生徒たちは、小、中、高では愛国教育を受けているのです。愛国教育の塊が下地にあって、その上に日本勉強があるのです」。ああ、それは確かにそうだろうなと、僕は思った。

 別のときに南京大学で講義をして、たくさんの日本語の分かる学生に「ありがとうございます」と立派な日本語でお礼をいわれた。そこで僕は「だけど君たちは、ずっと愛国教育を受けてきたんでしょう」と聞くと、彼らは「そうです」という。「その愛国魂は失っていないのでしょう」と突っ込むと、「失っていません」と答えた。僕は「嘘をつけ」といった。

 「君たちは愛国魂を失っている。南京大学で日本語を勉強して、日本の会社に勤めて、得しようと思っているだろう。自分個人のために勉強しているのではないのか」といったら、ムニャムニャムニャ……と、みんな口ごもってしまった。そこで僕は、「そんな情ない人たちに、日本を教える気はしない。君たちは立派な中国をつくれ。日本から学べるところは学び、学べないところは学ばないで、立派な中国をつくってほしい。それが日本側の心だよ」といった。

 すると彼らの反応は2通りで、「はあ」とあいまいに答える人と、「うん」とはっきり答える人とがいた。「うん」と唇を引き締めて帰る人は共産党員。「はあ」といって帰る人は党員ではないと思う。党員の総数は約6000万人で、その家族も入れれば2~3億人になる。13億人のうちの2~3億人だから、党員は中国全体の1割から2割は、いるのだろう。

 党員か党員でないかというのは、中国人を見ているうちに、だんだんとわかるようになる。パーティーをしていても、食事をしていても、党員はみんなを仕切るのだ。それから、精神的なこと、どういう精神を持つべきかを話す。つまり、中国13億人の精神の管理者なのだ。だから党員は、他の人に勉強で負けても、収入が低くても平気で、とにかく精神を管理する。

 その精神の基礎部分が、マルクス・レーニン・スターリン・毛沢東だけではダメだというところで、中国共産党は動揺しているわけだ。それでも精神の管理者だから「この中国人には魂がない。精神がない。共産党が教え込むんだ。放っておくと、みんな血縁主義とか、拝金思想だけになってしまう。そんなことでは中国は立っていけないだろう」と思っている。そういう思いがその人の顔つきや動作に表れていて、しばらく注意して見ているとすぐにわかるようになるのだ。

取り仕切るのが仕事と考えるハーバード卒

 アメリカで、それと同じ経験をした。共産主義のような思想はアメリカにはないが、そうではなくて「自分はエリートだ」という、周りを見下している人間がたくさんいるのだ。

 一番わかりやすい例を挙げると、ハーバード・ビジネス・スクールの卒業生がそれに当たる。「オレはMBAを持っているぞ」という人。商売でアメリカに行くと、そういう人たちによく会う。彼らは商売の世界では「エリート」と呼ばれている。そういう人が、年は若くても偉そうに取り仕切るのだ。僕は「取り仕切っているわりにはいいことを言わないな」と思って聞いているのだが、それでも彼ら自身は、「取り仕切るのが自分の役割だ」と思っているらしい。周りもわりと黙って聞いている。

 どこの国にも、“取り仕切るのが自分の仕事”と思っている人がいるわけだ。イギリスなどには、そうした人がたくさんいる。逆に日本には、取り仕切らないのが自慢という人がいっぱいいる。社長になっても、「社長って何をすればいいのか、みんなで決めてください」とかね。

 それが悪いとは思わないが、昔の教育は「根本的にはオレがやるんだ」という根性を叩き込んだものだ。旧制中学校などは、そういった教育の中枢なのだ。旧制中学校に進学する人は、男子の3%とか5%だったのだから。
そもそも旧制中学校は各県に1つだけだった。だから旧制中学校に入学した学生は、もうその時点でエリートの気概を持たなければいけなかった。“少なくともこの県はしょって立つ”と、自分も思い、友達も思い、先生も思い、先輩も思い、後輩も思う。それが日本におけるエリート教育だったし、そうした学生は「根本的にはオレがやるんだ」という根性を叩き込まれたものだった。

 そういうエリート意識というのが、かつての日本にはあった。それが戦後、まるで消えてしまって、自分自身のために勉強するようになった。勉強は個人のため。そうすると、東大に入っても、京大に入っても、社会的な値打ちがないわけだ。昔は「日本のためにがんばって難しい勉強をしてくれ、お前は頭にスッスッと入る人間だから、他のことはあきらめて、それを専門にやってくれ」と応援された。それが奨学金であり、地域の人の応援だったのだ。

 いまのエリートは、地域の嫌われ者になってしまった。地域を踏み台にして東京や京都に出て行って、自分だけが偉くなるわけだから。それが偏差値教育で、出ていった本人もまた、地域のみんなの面倒を見る気がないし、取り仕切る気もない。そういう人たちが日本の役人であり、日本の学者なのだ。だから彼らは、外国から何かいわれても、“自分が矢面に立つ”という気持ちがまったくないわけだ。

 僕はこういうことを繰り返しいってきた。でも「日本はこれだけ幸せになっているのだから、これ以上、そんなエリートはいないほうがいいです」という意見もある。確かに、こうした意見も正しいと思う。ただ、日本の将来を考えると心配になってしまうのだ。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home