山本五十六
■1.失意■
昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃で大東亜戦争が始
まった。帝国海軍は敵戦艦4隻沈没、3隻大破、1隻中破とい
う大戦果をあげ、アメリカ太平洋艦隊の主力を一挙に撃滅した。
[a]
しかし、その直後、連合艦隊司令長官・山本五十六は深く沈
んだ様子に見えた、という。華々しい戦果の陰に、日米開戦を
なんとか阻止しようという志を果たなかった失意を山本は噛み
しめていたのであろう。
真珠湾攻撃の約2ヶ月前、50人を超す各級司令官たちを集
めて、「異論もあろうが、私が長官である限りハワイ奇襲作戦
は必ずやる」と言い切ったその日、山本は親友・堀悌吉に、こ
んな手紙を書いている。
個人としての意見と正確に反対の決意を固め其の方向に
一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なものなり。これも
命といふものか。
「個人としての意見」とは、海軍次官として、日米開戦を招く
三国同盟に命を掛けて反対してきた事を指す。今は、連合艦隊
司令長官として、それとは「正確に反対の決意」を固めざるを
えなかった。
12月10日にはイギリス東洋艦隊の2隻の戦艦を航空攻撃
で沈めた[b]。「これは長官、男爵か元帥かということになっ
て来ますね」と言う部下に、山本はこう答えた。
俺ァ、そんなものは要らないけどね。もし褒美をもらえ
るなら、シンガポールあたりに土地を買って、僕に大きな
バクチ場を経営させてくれないかナ。そうしたら、世界中
の金を、ごっそり日本へ集めて来てやるんだがな。
ブリッジの腕は東洋一と豪語する山本のそんな夢が、叶うは
ずもなかった。
■2.不本意のロンドン行き■
山本が日本国内はもとより、アメリカや英国、ドイツの政府、
海軍上層部に知られるようになったのは、昭和9(1934)年のロ
ンドン海軍軍縮会議予備交渉において、海軍側主席代表として
活躍した時であった。しかし、山本の失意はこの時から始まっ
ている。
米・英・日の海軍軍備を5:5:3と取り決めたワシントン
条約は、昭和11(1936)年に有効期限が満了することになって
いた。その後の新しい軍縮協定への地固めをしよう、というの
が、このロンドン予備交渉の趣旨であった。
日本近海で日米艦隊決戦をするとすれば、対米7割が必要と
いうのが海軍内の「艦隊派」の考えで、これはアメリカのある
軍事雑誌も同意見を述べていた。
一方、山本は、アメリカ駐在2度の経験から、
デトロイトの自動車工業と、テキサスの油田を見ただけ
でも、アメリカを相手に無制限の建艦競争など始めて、日
本の国力で到底やり抜けるものではない。
と、考えていた。この頃までの海軍ではどんな強硬派でも、ア
メリカと戦争して本当に勝てると考えるほど勇ましく無知な人
物はそういなかった。[1,p55]
したがって、日本側の案は対英米6割というワシントン条約
をそのままの形で今後も認めることは到底できず、さりとて無
制限の建艦競争に入ったら国力が追いつかない。そこで各国平
等の海軍兵力制限を設け、それをできるだけ低い所に引いてお
きたい、という都合の良いものであった。
山本としては「艦隊派」の考えとは溝があり、何度もロンド
ン行きを辞退したが、結局、ほかに人がいない、という理由で
受けざるを得なかったのである。
交渉の場では日本政府は、山本に航空母艦の全廃を主張させ
ている。今後は航空兵力が中心となると考えていた山本にとっ
て、これはまさしく「個人としての意見と正確に反対」のもの
であった。
ロンドンでの日本海軍側主席代表という立場も、そこでの主
張も、山本にとっては不本意なものであった。
■3.鋭い舌鋒■
しかし、日本政府の代表として送り込まれた以上は、その意
見を主張しなければならない。
5対3は決して日本に対する脅威にならないはずだとアメリ
カ側が言うと、山本は、
米国の5の勢力が、日本の3の勢力に対して脅威でない
というなら、日本の5の勢力が米国の5の勢力に対して脅
威になるはずがないではないか
と、言い返したりしている。山本の鋭い舌鋒に、アメリカ代表
は「ワシントンでは、アメリカが頭から抑えたものを、今度は
山本が逆に自分を抑えにかかってきた」と密かに舌を巻いた。
英国は日本の提案に好意的だったが、アメリカは冷淡だった。
無制限の建艦競争になれば、国力に勝るアメリカが優位となる。
日本を追い込んで、単独でワシントン条約廃棄の通告を出さざ
るをえないようにすれば、軍縮不成功の責任はすべて日本に負
わせることができる。
こういう立場では、山本としても、英国を頼って何とか妥協
点を見いだすよう粘るしかなかった。
■4.失意のロンドン交渉■
ロンドン滞在中に、海軍兵学校の同期で親友の堀悌吉が予備
役に編入されたという知らせが届いた。艦隊派の策謀で、条約
存続派が次々と失脚させられており、その一環であった。山本
はすぐに堀に手紙を書いた。
爾来(じらい、それより後)、会商(交渉)に対する張
合も抜け、身を殺しても海軍の為などという意気込みはな
くなってしまった
ただあまりひどい喧嘩わかれとなっては日本全体に気の
毒だと思えばこそ少しでも体裁よくあとをにごそうと考へ
て居る位に過ぎない
その後も山本は真剣な交渉を続けたのだが、アメリカ代表は
クリスマスを口実に帰国すると言い出した。山本は再開の期日
を約しておいた方が良いと食い下がったが、アメリカ代表は言
葉を濁して、引き揚げてしまった。
その後は日英の非公式な交渉が続き、英国の譲歩案に日本案
をかませ、それを英国を介してアメリカに了承させれば、なん
とか妥協の道がつくのではないか、という所までこぎ着けた。
その案で東京に伺いの電報を打ったが、東京からは「余計なこ
とをするな」と匂わせる返事が届いた。
山本が粘りに粘ったこの3ヶ月が軍縮の最後のチャンスだっ
たが、それが失敗し、世界は無条約・無制限建艦競争の時代に
突入するのである。
ロンドン交渉で山本の名は国内外に高まったが、その結果は
山本にとって望みとは正反対のものであった。
■5.「何がめでたいか」■
昭和10(1935)年2月に帰国してから、山本はしばらく海軍
省内の薄暗い一室に憂鬱な顔をして燻っていた。中将だが、仕
事は何もない。何度も郷里の長岡に帰ったり、「俺は海軍やめ
たら、モナコへ行って、博打打ちになるんだ」などと親しい友
人に言ったりしていた。
その年の暮れ、航空本部長に就任。かつては航空本部の技術
部長を3年務め、この間、海軍の航空は飛躍的な発展を遂げた
と言われている。山本が技術部長時代に発案して、開発に着手
し、航空本部長となってから量産に入ったのが、長距離陸上攻
撃機「96式陸攻」だった。
昭和12(1937)年8月、日華事変の初頭に、96式陸攻の大
編隊が台北と高雄から暴風雨の東シナ海を渡って、中国の広徳
・杭州の両飛行場を爆撃し、壊滅的な打撃を与えた。往復2千
キロの渡洋爆撃は、世界の航空専門家を驚かせた。これで日本
の航空技術は世界の最高水準に到達したと言われた。山本は陸
軍の始めた日華事変そのものは苦々しく思っていたが、96式
陸攻の活躍には、会心の笑みを浮かべたろう。
「航空本部長なら、いつまででもやってみたい」と語っていた
が、これもわずか一年で海軍次官への転出を命ぜられた。「お
めでとう」という人々に、「何がめでたいか。折角今まで、日
本の航空を育てようと一生懸命やってきたのに」と本気で怒っ
た。
■6.「至誠一貫俗論を排し」■
昭和11(1936)年12月、海軍次官に就任し、ここから広田、
林、近衛(一次)、平沼の4内閣での2年9ヶ月に及ぶ苦闘が
始まる。林内閣で米内光政が海軍大臣として登場するが、その
担ぎ出しを最も強く主張したのが山本であった。
以後、米内海相、山本次官、井上成美軍務局長のトリオで、
陸軍の主張するドイツ、イタリアとの三国同盟を阻止しつづけ
るのだが、その苦闘ぶりは弊誌407号に述べた。[c]
陸軍に操られた右翼がよく脅迫状を送ったり、海軍省に押し
かけてきた。山本は休日には友人宅に潜伏して、麻雀をしたり
して過ごした。
この頃の山本は暗殺を覚悟していたらしく、次のような遺書
をしたためて、海軍省次官室の金庫に納めていた。
勇戦奮闘戦場の華と散らんは易し。
誰か至誠一貫俗論を排し斃れて已(や)むの難(かた)き
を知らむ
高遠なる哉(かな)君恩、悠久なるかな皇国。
思はざる可(べ)からず君国百年の計。
一身の栄辱生死、豈(あに)論ずる閑あらんや
三国同盟という「俗論を排し」、「君国百年の計」を思えば、
自らの栄誉や生命など、論ずるに足らない、という覚悟である。
昭和14(1939)年8月、独ソの突然の不可侵条約締結で、三
国同盟問題は棚上げとなり、平沼内閣は倒れた。米内が海軍大
臣を辞めると、山本も次官を辞めて、連合艦隊司令長官に転出
した。山本を後任の海軍大臣に、という声もかなりあったが、
米内は「山本を無理に持ってくると、殺される恐れがあるから
ね」と答えた。
米内は昭和15(1940)年1月から首相となり、この間は三国
同盟論も下火となるが、その後に第二次近衛内閣が成立すると、
わずか2ヶ月余りで三国同盟が成立し、日本は戦争への道を一
気に走り始めた。
■7.「長門」の艦上で討ち死にするだろう■
同盟調印から2週間後、山本は非常な決心の様子でこう語っ
ている。
実に言語道断だ。・・・自分の考えでは、アメリカと戦
争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもり
にならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵条約
を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもん
じゃない。アメリカと戦争しているうちに、その条約を守っ
てうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証
するか。結局自分は、もうこうなった以上は、最善を尽く
して奮闘する。そうして「長門」(連合艦隊旗艦)の艦上
で討ち死にするだろう。その間に、東京あたりは三度ぐら
いまる焼きにされて、非常なみじめな目に会うだろう。
[1,p382]
東京の空襲もソヴィエトの侵略も、山本にはお見通しであっ
た。
昭和16(1941)年秋、日米の対立が決定的になりつつある最
中に、第三次近衛内閣から東条内閣に替わった。この時に米内
光政らが中心となって、山本を海軍大臣に担ぎ出そうとした。
もしこれが実現していたら、12月の開戦は少なくとも先に
延ばされ、山本が腰抜けとか、親英米とか言われて時を稼いで
いるうちに、ドイツの退勢があきらかとなって、日本はヒット
ラーのバスには乗らなかったろう、とも言われている。
おそらく、それは山本の本意でもあったに違いない。しかし、
東条内閣の海相となった嶋田繁太郎は、自分の地位を脅かされ
るのを嫌ったのか、「連合艦隊司令長官には、山本以外には人
がいない」との一点張りでついに承知しなかった。
こうして、連合艦隊司令長官は2年までという海軍の不文律
にも関わらず、山本はその職に留まり、「個人としての意見と
正確に反対の決意を固め」て、真珠湾攻撃を敢行したのである。
そして、その結果、山本が正確に予見したとおり、自らも昭
和18年4月、ソロモン群島方面での最前線視察のために空路
移動中、敵機に襲われて戦死し、東京も空襲で丸焼けになった。
■8.「苦しいこともあるだろう」■
山本の残した言葉に次のようなものがある。
苦しいこともあるだろう。言い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣
き度いこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくの
が男の修行である。
日本海軍主席代表、航空本部長、海軍次官、連合艦隊司令長
官という華々しい経歴の裏で、山本はこの言葉通り、苦しいこ
と、言いたいこと、不満なこと、腹の立つこと、泣きたいこと
を、じっとこらえて、失意の人生を生き抜いてきたのである。
許されることなら、モナコあたりで博打に打ち込んでいたか
もしれない。あるいは、飛行機屋としてひたむきな日々を送っ
ていたかもしれない。そういう生き方を許さなかったのは、山
本自身の報国の志であった。
昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃で大東亜戦争が始
まった。帝国海軍は敵戦艦4隻沈没、3隻大破、1隻中破とい
う大戦果をあげ、アメリカ太平洋艦隊の主力を一挙に撃滅した。
[a]
しかし、その直後、連合艦隊司令長官・山本五十六は深く沈
んだ様子に見えた、という。華々しい戦果の陰に、日米開戦を
なんとか阻止しようという志を果たなかった失意を山本は噛み
しめていたのであろう。
真珠湾攻撃の約2ヶ月前、50人を超す各級司令官たちを集
めて、「異論もあろうが、私が長官である限りハワイ奇襲作戦
は必ずやる」と言い切ったその日、山本は親友・堀悌吉に、こ
んな手紙を書いている。
個人としての意見と正確に反対の決意を固め其の方向に
一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なものなり。これも
命といふものか。
「個人としての意見」とは、海軍次官として、日米開戦を招く
三国同盟に命を掛けて反対してきた事を指す。今は、連合艦隊
司令長官として、それとは「正確に反対の決意」を固めざるを
えなかった。
12月10日にはイギリス東洋艦隊の2隻の戦艦を航空攻撃
で沈めた[b]。「これは長官、男爵か元帥かということになっ
て来ますね」と言う部下に、山本はこう答えた。
俺ァ、そんなものは要らないけどね。もし褒美をもらえ
るなら、シンガポールあたりに土地を買って、僕に大きな
バクチ場を経営させてくれないかナ。そうしたら、世界中
の金を、ごっそり日本へ集めて来てやるんだがな。
ブリッジの腕は東洋一と豪語する山本のそんな夢が、叶うは
ずもなかった。
■2.不本意のロンドン行き■
山本が日本国内はもとより、アメリカや英国、ドイツの政府、
海軍上層部に知られるようになったのは、昭和9(1934)年のロ
ンドン海軍軍縮会議予備交渉において、海軍側主席代表として
活躍した時であった。しかし、山本の失意はこの時から始まっ
ている。
米・英・日の海軍軍備を5:5:3と取り決めたワシントン
条約は、昭和11(1936)年に有効期限が満了することになって
いた。その後の新しい軍縮協定への地固めをしよう、というの
が、このロンドン予備交渉の趣旨であった。
日本近海で日米艦隊決戦をするとすれば、対米7割が必要と
いうのが海軍内の「艦隊派」の考えで、これはアメリカのある
軍事雑誌も同意見を述べていた。
一方、山本は、アメリカ駐在2度の経験から、
デトロイトの自動車工業と、テキサスの油田を見ただけ
でも、アメリカを相手に無制限の建艦競争など始めて、日
本の国力で到底やり抜けるものではない。
と、考えていた。この頃までの海軍ではどんな強硬派でも、ア
メリカと戦争して本当に勝てると考えるほど勇ましく無知な人
物はそういなかった。[1,p55]
したがって、日本側の案は対英米6割というワシントン条約
をそのままの形で今後も認めることは到底できず、さりとて無
制限の建艦競争に入ったら国力が追いつかない。そこで各国平
等の海軍兵力制限を設け、それをできるだけ低い所に引いてお
きたい、という都合の良いものであった。
山本としては「艦隊派」の考えとは溝があり、何度もロンド
ン行きを辞退したが、結局、ほかに人がいない、という理由で
受けざるを得なかったのである。
交渉の場では日本政府は、山本に航空母艦の全廃を主張させ
ている。今後は航空兵力が中心となると考えていた山本にとっ
て、これはまさしく「個人としての意見と正確に反対」のもの
であった。
ロンドンでの日本海軍側主席代表という立場も、そこでの主
張も、山本にとっては不本意なものであった。
■3.鋭い舌鋒■
しかし、日本政府の代表として送り込まれた以上は、その意
見を主張しなければならない。
5対3は決して日本に対する脅威にならないはずだとアメリ
カ側が言うと、山本は、
米国の5の勢力が、日本の3の勢力に対して脅威でない
というなら、日本の5の勢力が米国の5の勢力に対して脅
威になるはずがないではないか
と、言い返したりしている。山本の鋭い舌鋒に、アメリカ代表
は「ワシントンでは、アメリカが頭から抑えたものを、今度は
山本が逆に自分を抑えにかかってきた」と密かに舌を巻いた。
英国は日本の提案に好意的だったが、アメリカは冷淡だった。
無制限の建艦競争になれば、国力に勝るアメリカが優位となる。
日本を追い込んで、単独でワシントン条約廃棄の通告を出さざ
るをえないようにすれば、軍縮不成功の責任はすべて日本に負
わせることができる。
こういう立場では、山本としても、英国を頼って何とか妥協
点を見いだすよう粘るしかなかった。
■4.失意のロンドン交渉■
ロンドン滞在中に、海軍兵学校の同期で親友の堀悌吉が予備
役に編入されたという知らせが届いた。艦隊派の策謀で、条約
存続派が次々と失脚させられており、その一環であった。山本
はすぐに堀に手紙を書いた。
爾来(じらい、それより後)、会商(交渉)に対する張
合も抜け、身を殺しても海軍の為などという意気込みはな
くなってしまった
ただあまりひどい喧嘩わかれとなっては日本全体に気の
毒だと思えばこそ少しでも体裁よくあとをにごそうと考へ
て居る位に過ぎない
その後も山本は真剣な交渉を続けたのだが、アメリカ代表は
クリスマスを口実に帰国すると言い出した。山本は再開の期日
を約しておいた方が良いと食い下がったが、アメリカ代表は言
葉を濁して、引き揚げてしまった。
その後は日英の非公式な交渉が続き、英国の譲歩案に日本案
をかませ、それを英国を介してアメリカに了承させれば、なん
とか妥協の道がつくのではないか、という所までこぎ着けた。
その案で東京に伺いの電報を打ったが、東京からは「余計なこ
とをするな」と匂わせる返事が届いた。
山本が粘りに粘ったこの3ヶ月が軍縮の最後のチャンスだっ
たが、それが失敗し、世界は無条約・無制限建艦競争の時代に
突入するのである。
ロンドン交渉で山本の名は国内外に高まったが、その結果は
山本にとって望みとは正反対のものであった。
■5.「何がめでたいか」■
昭和10(1935)年2月に帰国してから、山本はしばらく海軍
省内の薄暗い一室に憂鬱な顔をして燻っていた。中将だが、仕
事は何もない。何度も郷里の長岡に帰ったり、「俺は海軍やめ
たら、モナコへ行って、博打打ちになるんだ」などと親しい友
人に言ったりしていた。
その年の暮れ、航空本部長に就任。かつては航空本部の技術
部長を3年務め、この間、海軍の航空は飛躍的な発展を遂げた
と言われている。山本が技術部長時代に発案して、開発に着手
し、航空本部長となってから量産に入ったのが、長距離陸上攻
撃機「96式陸攻」だった。
昭和12(1937)年8月、日華事変の初頭に、96式陸攻の大
編隊が台北と高雄から暴風雨の東シナ海を渡って、中国の広徳
・杭州の両飛行場を爆撃し、壊滅的な打撃を与えた。往復2千
キロの渡洋爆撃は、世界の航空専門家を驚かせた。これで日本
の航空技術は世界の最高水準に到達したと言われた。山本は陸
軍の始めた日華事変そのものは苦々しく思っていたが、96式
陸攻の活躍には、会心の笑みを浮かべたろう。
「航空本部長なら、いつまででもやってみたい」と語っていた
が、これもわずか一年で海軍次官への転出を命ぜられた。「お
めでとう」という人々に、「何がめでたいか。折角今まで、日
本の航空を育てようと一生懸命やってきたのに」と本気で怒っ
た。
■6.「至誠一貫俗論を排し」■
昭和11(1936)年12月、海軍次官に就任し、ここから広田、
林、近衛(一次)、平沼の4内閣での2年9ヶ月に及ぶ苦闘が
始まる。林内閣で米内光政が海軍大臣として登場するが、その
担ぎ出しを最も強く主張したのが山本であった。
以後、米内海相、山本次官、井上成美軍務局長のトリオで、
陸軍の主張するドイツ、イタリアとの三国同盟を阻止しつづけ
るのだが、その苦闘ぶりは弊誌407号に述べた。[c]
陸軍に操られた右翼がよく脅迫状を送ったり、海軍省に押し
かけてきた。山本は休日には友人宅に潜伏して、麻雀をしたり
して過ごした。
この頃の山本は暗殺を覚悟していたらしく、次のような遺書
をしたためて、海軍省次官室の金庫に納めていた。
勇戦奮闘戦場の華と散らんは易し。
誰か至誠一貫俗論を排し斃れて已(や)むの難(かた)き
を知らむ
高遠なる哉(かな)君恩、悠久なるかな皇国。
思はざる可(べ)からず君国百年の計。
一身の栄辱生死、豈(あに)論ずる閑あらんや
三国同盟という「俗論を排し」、「君国百年の計」を思えば、
自らの栄誉や生命など、論ずるに足らない、という覚悟である。
昭和14(1939)年8月、独ソの突然の不可侵条約締結で、三
国同盟問題は棚上げとなり、平沼内閣は倒れた。米内が海軍大
臣を辞めると、山本も次官を辞めて、連合艦隊司令長官に転出
した。山本を後任の海軍大臣に、という声もかなりあったが、
米内は「山本を無理に持ってくると、殺される恐れがあるから
ね」と答えた。
米内は昭和15(1940)年1月から首相となり、この間は三国
同盟論も下火となるが、その後に第二次近衛内閣が成立すると、
わずか2ヶ月余りで三国同盟が成立し、日本は戦争への道を一
気に走り始めた。
■7.「長門」の艦上で討ち死にするだろう■
同盟調印から2週間後、山本は非常な決心の様子でこう語っ
ている。
実に言語道断だ。・・・自分の考えでは、アメリカと戦
争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもり
にならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵条約
を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもん
じゃない。アメリカと戦争しているうちに、その条約を守っ
てうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証
するか。結局自分は、もうこうなった以上は、最善を尽く
して奮闘する。そうして「長門」(連合艦隊旗艦)の艦上
で討ち死にするだろう。その間に、東京あたりは三度ぐら
いまる焼きにされて、非常なみじめな目に会うだろう。
[1,p382]
東京の空襲もソヴィエトの侵略も、山本にはお見通しであっ
た。
昭和16(1941)年秋、日米の対立が決定的になりつつある最
中に、第三次近衛内閣から東条内閣に替わった。この時に米内
光政らが中心となって、山本を海軍大臣に担ぎ出そうとした。
もしこれが実現していたら、12月の開戦は少なくとも先に
延ばされ、山本が腰抜けとか、親英米とか言われて時を稼いで
いるうちに、ドイツの退勢があきらかとなって、日本はヒット
ラーのバスには乗らなかったろう、とも言われている。
おそらく、それは山本の本意でもあったに違いない。しかし、
東条内閣の海相となった嶋田繁太郎は、自分の地位を脅かされ
るのを嫌ったのか、「連合艦隊司令長官には、山本以外には人
がいない」との一点張りでついに承知しなかった。
こうして、連合艦隊司令長官は2年までという海軍の不文律
にも関わらず、山本はその職に留まり、「個人としての意見と
正確に反対の決意を固め」て、真珠湾攻撃を敢行したのである。
そして、その結果、山本が正確に予見したとおり、自らも昭
和18年4月、ソロモン群島方面での最前線視察のために空路
移動中、敵機に襲われて戦死し、東京も空襲で丸焼けになった。
■8.「苦しいこともあるだろう」■
山本の残した言葉に次のようなものがある。
苦しいこともあるだろう。言い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣
き度いこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくの
が男の修行である。
日本海軍主席代表、航空本部長、海軍次官、連合艦隊司令長
官という華々しい経歴の裏で、山本はこの言葉通り、苦しいこ
と、言いたいこと、不満なこと、腹の立つこと、泣きたいこと
を、じっとこらえて、失意の人生を生き抜いてきたのである。
許されることなら、モナコあたりで博打に打ち込んでいたか
もしれない。あるいは、飛行機屋としてひたむきな日々を送っ
ていたかもしれない。そういう生き方を許さなかったのは、山
本自身の報国の志であった。
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