Thursday, July 05, 2007

ハイテクではなくローテクで稼げ

設備・技術より「経営周期」を重視して成長続ける
「1億2000万円もかけて導入した電子ビーム溶接機をこの前、3000万円で売っちゃいました。人が手で溶接できるので、もう不要になったから…」  富山県黒部市に本社がある機械メーカー、カナヤママシナリーの金山宏明社長はけろりとした表情で話す。  今から13年前の1994年、アルミニウムの溶接、それも薄板ではなく厚さが80ミリを超えるような厚板の溶接用に鳴り物入りで導入した機械である。当時、同社の売上高の3分の1に相当する高価な設備で、渋る銀行に何度も頭を下げてやっとの思いで資金を調達して導入した。  電子ビーム溶接機は、真空中で電子ビームを発生させ、その電子ビームを溶接物に当てて金属を溶かして溶接する機械。電子ビームの焦点距離が非常に長いため溶接物の奥深くまで電子ビームが届くので、厚い材料を溶接できる。また、真空中で加工するため酸化しやすい材料の高品質な溶接ができる。  この機械を導入すると、難加工に頭を痛めていた企業から発注が相次いだ。それも大手企業の研究所など、先端的な研究をしているところから難しいチタンやアルミの加工を多数依頼されたという。
高価な機械を使うよりも人間の手作業に戻る人間の手でもアルミの高品質な溶接が可能になった そんな大切な機械を未練もなく手放してしまった。  機械が古くなったからではない。電子ビームのようなハイテクを使わなくても、TIG(ティグ)溶接と呼ばれる古くからある手法で厚いアルミ製品の溶接ができるようになったからである。  ハイテクからローテクへの回帰と言えるが、その方が実は儲かるのだ。  「当社の商品の柱の1つである真空チャンバーは高い気密性が要求されます。溶接したところにスが入ってしまうとそこから気体が漏れ出して使い物になりません。電子ビーム溶接なら、そうした心配がほとんどなくなるのですが、実は欠点もあります」  真空中で加工するために、溶接物を真空チャンバー内に入れて真空に引かなければならない。加工のための段取りが大変で時間とコストがかかる。  そして最大の欠点は、溶接する装置の裏側から溶接ができないということだった。長い焦点距離を必要とするからで、1方向からだけの溶接で済むならいいのだが、反対側からの溶接が必要になるとお手上げになってしまう。  「新しい素材の溶接に取り組むのに、初めは電子ビームが大変役に立ちましたが、そうした素材の溶接に慣れてくると、ノウハウがたまって空気中で人が手で溶接しても高い品質を得られるようになったのです」
設備はしょせん道具に過ぎず変化への対応が難しい 電子ビームという新しい装置によって難しい材料の溶接の世界に入り、ノウハウを蓄積して人間の技を磨いてコストを下げ品質を上げる――。人間の技を機械に置き換えてコストを下げる従来の一般的な手法とは全く正反対と言える。  しかも熟練の技ならどんなに複雑な形状の溶接物にも対応できる。現在、同社の売り上げの約6割を得意の溶接技術を生かした真空チャンバーが占める。半導体や液晶製造装置に使われる装置で、世界的に半導体や液晶の生産が増えていることから数多くの受注残を抱えている。  「設備はしょせん道具に過ぎません。道具があるからそれでできる仕事をするのではなく、自分たちが何をしたいのか、何を作って売りたいのかを考えることが大切です。設備に固執するとめまぐるしく変化する世の中に対応するのが難しくなってしまいます」
カナヤママシナリーは1954年、金山社長の父親である金山重宏氏が機械加工メーカーの金山鉄工所を設立したのが始まり。高度成長の波に乗って、順調に事業を拡大してきたが、バブル崩壊で日本の産業構造が大きく変わり始めると、ほかの鉄工所と同様に経営は苦しくなった。  取引先が何社も倒産し数十億円という資金を回収できなくなってしまった。何とか連鎖倒産だけは避けられたものの、その後は青息吐息に。
工場の中は腐った機械と高齢の社員だけに 重宏氏も病気を患い、大学の工学部を出て重宏氏の知り合いの鉄工所に勤めていた息子の宏明氏が26歳の若さで後を継いだ。  「工場の中は古い腐ったような機械しかないし、従業員の平均年齢は50歳弱と高くなっていたし、目の前が真っ暗という感じでした」  そこで若い宏明社長は乾坤一擲の決断をする。売上高が1億5000万円しかないのに5000万円もする最新型の5面加工機を購入したのだ。  「最後の力を振り絞って、ありったけのお金をかき集めました。周囲の人たちからは、そんなことをすれば会社を潰すだけだとバカ呼ばわりされましたが、父だけはお前が会社を潰すなら仕方がない。好きなようにやってみろと言われました」  若さがさせた決断とも言えるが、結果は吉と出た。北陸の有力企業であるコマツや津田駒工業などから受注が舞い込んだのである。  「汎用品から高付加価値な製品へと日本がシフトしていく中で、複雑な加工ができる企業なら仕事を出してみようと思ったのでしょう。世間が不況になっていく中で数多くの受注をいただきました」
高価な機械は大企業への営業の窓口となる 技術力はあってもそれをどう売り込むか。中小企業にとって最も頭の痛い問題だ。それを最新鋭の加工機を導入することで、解決したわけである。  その後導入した電子ビーム溶接機の導入も実は同じような狙いがあった。それまでほとんど取引ができなかったNECや日立製作所など大手の電機メーカーや機械メーカーの研究所などから大量の受注が舞い込んだ。  そして、乾坤一擲の設備導入にはもう1つ別の意図もあった。  「高齢化した従業員を何とか若返らせなければ企業は衰退してしまいます。しかし、腐ったような工作機械しか並んでいない企業に優秀な若者が来てくれるはずがありません。最新鋭の機械は若い技術者を惹きつけるためにも必要だったのです」  その狙いも当たり、現在、カナヤママシナリーの従業員の平均年齢は30歳を下回るまでに下がった。金山社長が経営を引き継いでから20歳も若返ったことになる。  しかし、その5面加工機も電子ビーム溶接機同様、売り払ってしまい今はない。一定の役目を終えたら、世間の激しい構造変化に対応するために未練なく処分すべきだという金山社長の方針があるからだ。  現在、カナヤママシナリーでは事業の6割を占める真空チャンバー事業に加えて、プリント基板にメッキ処理などをする電子デバイス事業、車椅子などの福祉事業が3つの柱になっている。電子デバイス事業は、大手の電機メーカーとの関係が強化した事業と言える。
車椅子のベンツを開発、日本よりも中国市場に注力 もう1つの福祉事業が現在、金山社長が最も力を入れている事業である。  1999年に車椅子の製造販売を始めた。しかし、普通の車椅子ではない。最高級の製品、いわば「車椅子のベンツ」を目指した。  「日本で車椅子と言うと、介護保険で支給される規格品がほとんどでした。しかし、それは支給されるから仕方なく乗るという製品でしかなく、乗る人のことを徹底的に考えて作られているかと言うと残念ながら違います。私たちは、長く乗っていても床ずれを起こしたり腰を痛めたりしないような、乗る人のことを最優先する製品の開発を目指したのです。少子高齢化時代に入り、かつお金をたくさん持った団塊の世代が介護が必要になってくれば、そうした規格品では満足されないはずです」  そうした意図で同社が開発し販売し始めた「楽歩(らっぽ)」の基本価格は38万円。いわゆる規格品と呼ばれる車椅子の販売価格は8万円なので価格差は実に30万円もある。  販売を始めると高級な車椅子として有名になった。「芸術品」との異名ももらったと言う。  しかし、販売は思ったほど伸びなかった。  「残念ながら日本では市場にまだ火がついていません。でも、米国や台湾では少しずつですが着実に売れるようになり、高級ブランドとして認知されるようになってきました。海外から先に火がつきそうです」  金山社長は今、毎月のように中国に飛んでいる。中国市場を開拓するためだ。  「コピー天国の中国に製品を持っていったら真似されるだけ。やめなさいとよく言われました。しかし、たとえ真似されてもこうした製品が市場に多く出てくることの方が大切です。しかも、中国は人口が多いうえにやはり少子高齢化が急速に進んでいます。この市場は極めて大切です」
技術よりも経営の時代が到来介護保険制度改革で急に売れ出した歩行補助機 カナヤママシナリーの売上高は95年12月期に6億8900万円(帝国データバンク調べ)。利益はほとんど出ていないが、真空チャンバーや電子デバイスで稼いだ利益を車椅子の事業や研究開発につぎ込んでいるためだ。  なぜ、車椅子の事業にこだわるのか。次の時代をにらんでいることはもちろんだが、もう1つ、中小企業の弱点ともいえる安定した成長のためでもある。  真空チャンバーは受注してから製品の納入までに1年以上かかる場合がある気の長い商売だ。一方の電子デバイスは毎日のように製品が変わる気の短い商売。その中間に車椅子などの介護機器事業がある。  「それぞれの製品にはサイクルの波があります。山もあれば谷もある。3つのサイクルの周波数が違った製品を持つことで、谷を埋めて安定した成長が期待できるのです」  また、利益を出すことよりも研究開発に資金を投じることに重点を置く。  「市場や取引がグローバル化している中で、中小企業であっても開発に重点を置かないと、すぐに淘汰の危機に直面してしまう。手間はかかっても自分のブランドを築くことができれば、逆に市場は世界に広がる。技術力もさることながら経営力が問われている時代なのです」
 失われた10年、15年と言われた間に起こった日本経済の大きな構造変化。その波にのまれることなく、むしろ構造変化をチャンスととらえてたくましく成長している中小企業の姿があった。

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