意の人となり行動を起こせ
意の人」となり行動を起こせ 知の人となり、情の人となった人は、次に行動しなければいけない。行動すると、また次の世界が見えてくる。 行動すると、だいたいまずいことが起きることが多い。「まずくなってもやろう」という意志の力が必要である。つまり「意の人」にならなければ行動できない。 しかし世の中には、「知」も「情」も「意」も大したことないのに、自分は一人前になったと思っている人が多い。何をもって一人前とするかを、もっと根本から反省すべきだ。 借り物でも世間一般では通用してしまう。それなりの年齢になり、それなりの収入を得ている。学校も卒業して、会社では名刺がある。それで一人前になった。確かになっているかもしれないけれど、まだまだ残りがあるということに気がついてほしい。 わたしは、本当はそんなことはどうでもいいと思っている。人はそれぞれ幸せに暮らしていけばいいのだから、「これでいい」と思っている人に、「あなたはまだまだ足りない」などと言う気はまったくない。 ただ「何かいいことを言ってくれ」というオファーに対して、いいと思うことを言うと、みんな分からない。みんなが理解するための言葉もない、本もない、先輩もあまりいない。だからわたしは、いいことをかき集めてきて説明する。すると「そうかな」と思ってもらえる。 例えば「漫画やアニメは大事です」とか、「東京大学なんかすぐに潰れます」とか、わたしにはわたしなりの理屈があって、そういったことを言う。そうするとみんな「まさか」と言う。みんなだいたい「まさか」で暮らしている。だが、歴史を見れば、「まさか」がまさかではなく実際に起こり得ることが分かる。
行動には「機能快」がある 「行動する」とは、行動の重要性を体得することだ。理屈ではダメで、行動すれば分かる。行動する人はなかなかいないけれど、少しはいる。 以前、渡辺昇一さんに「機能快」という言葉を教わった。もともとはドイツ語か何かだと思う。人間の体にはいろいろな機能が備わっていて、その機能を発揮すると快感があるということを指すそうだ。 例えば、筋肉がある人は筋肉を使ってみたい。男性は、10代のころは筋肉をどんどん鍛えたくなる。鍛えれば伸びるから、快感を感じる。ジャンプ力のある人は少しでも高く遠くへ飛んでみたい。飛べたら快感を感じる。 同じことが前頭葉にも言える。前頭葉にも機能快がある。それをくすぐるような勉強法が、ちまたに出回っている。勉強をしたら「よくできたね」と褒めてあげると、勉強したくなる。それから、内臓にも機能快がある。「ラーメンを10杯食べたら無料」とか。 さらに、集団行動の機能快もある。人がたくさん集まって、太鼓を叩いて踊るようなことがあるだろう。それが集団機能快である。みんなとリズムをそろえて運動をしていると、大変な快感を感じるのだ。何か電波が出ているとか、ホルモンが出ているとか、説明はいろいろある。 それを日本人は広げて考える。動物と共生するとか、植物とも共生するとか、地球の生き物がみんなつながっているとかいうように、広げて考えていく。
宗教は集団的機能快を利用する ところが、ヨーロッパ人は集団機能快を動植物まで広げては考えない。それは聖書が悪い。聖書には、神様は特別に人間を作ったと書いてある。人間と動物とは違うと線を引いている。ヨーロッパでは、その影響がずっと続いている。 例えばカトリック教会は、神様の教えを伝えるために、いろいろなテクニックを使っている。宗教はみんな同じようなことをしているのだが、集団に何かを伝えるために、集団催眠術を使う。常識を破るような大きな建物が建立されれば、人々は「もう今までのことは通用しない。ここへ来たら特別だ」と思う。つまり、スイッチの切り替えになる。 仏教であれば、そこでお経を唱える。お経は単調で、意味がまったく分からない。分からないからいいのである。分かったら、催眠術から目が覚めてしまう。意味の分からないお経を単調なリズムで長々と聞くと、何となくありがたいような気持ちになる。大きな仏像を置いておくとか、そういうのも同じ。それは、どの宗教でもやっている。カトリックもやっている。 ただ、不思議なことに、カトリックはリズムのある音楽を禁止した。人間の大脳はリズムに弱く、聞くとすぐに酔ってしまう。逆にいえば、リズムで酔わせればすぐ信者になる。兵隊が出撃する前に太鼓を叩くのも同じような理由からだ。 実はそれは、ゲルマン民族がやっていた。その真似をしたのではありがたみがないから、高級な宗教であることを伝えるために、ローマカトリックはリズム音楽を禁止した。
日本人は人間を区切らない カトリックでは、朝の9時に礼拝が始まるとき、一斉に東の方を向いて、神をたたえる歌を歌った。すると神様がお喜びになると、勝手に思ったのだろう。 その歌声は、神様が一番お喜びになる声がいい。これは少女の美しい声である。だから女性の合唱団を作ればいいと思うのだが、それはしない。 これもまた聖書が邪魔になるのだが、聖書では女性の地位がすごく低い。神様のことが見えるのは男だ。キリストは男であるし、聖書では女性は神様と付き合える資格がないとされている。「神様をたたえる歌を歌うのは男であって、女は賛美歌を歌ってはいけない」というのが初期のカトリック教会である。 そこで、少女の歌声に近いボーイソプラノが選ばれた。少年たちの合唱団が、賛美歌を歌うのだ。それがやがて職業になっていく。職業になると、リストラされてしまうと困るから、去勢してでも高い声を続けようとする少年が出てくる。 何とも不自然な話である。集団行動の機能快で人間を片っ端から区切っていく考え方だと、そんなふうになってしまう。 日本人は区切らない。みんなあいまいに、総合的に考えるから、そうした面倒を起こさずに暮らしていくことができる。そして「一神教はダメです、多神教の方がいいです」とか、「あいまいな方がいいです」とか、日本的な考え方に至る。
「アクション」はアイデンティティにつながる 知の人になり、情の人になり、意の人になる。するとやがて、自分の世界が出来てしまう。それは閉鎖的にこもった世界ではなくて、行動を超えた自分の世界である。そして自然に仲間も出来ている。社会との一体感も自然に出来ている。つまり「行の人」、行いの人になる。 自分の世界を持つ。自分個人の世界ではなくて、社会とつながっている世界を持つこと。そこには、行うことで出来た友達がいる。それは「開発活動」ということもできる。 開発とは、今はまだないものを作り出すことである。ないものを作り出すことは、本当に面白い。それをアクションという。 アクトとは、自分から積極的に働きかけることをいう。ある意味では人を縛ることでもある。だから法律のことをアクトという。 アクションは通常、社会の支配階級が行う。ワークは下の人たちがする。アクションの面白さを知る人間になる、それはすなわち自己実現である。なぜならアクトとは、自分が「これがいい」とみんなに言うことだからだ。それは自然にアイデンティティになっていく。
歩き回って世の中を知る必要がある 自分の世界を持って、かつ社会に対して働きかけるというのは、ヨーロッパ的に言えば、神様の仕事を人間がすることである。しかし東洋的に言えば、人間が人間のことをしているだけである。 特に日本では、神様は人間の仕事をして田植えをする。天照大神は機織りをする。神様は、嫉妬もすれば人殺しもする。ギリシャ神話もそうで、神と人間をそんなに分けない。そういう世界に入っていけるだろう。 そうすると、相互扶助を実感できるようになる。誰かのために何かをすれば、いつかは自分にも回ってくる。自分に回ってこなくても、自分の子どもに回ってくるかもしれない。回ってこなくても、まあいいではないか。これは仏教の教えでもある。そういう幸不幸を知った人間になれる。 そのためには、やはり世の中を知らなければいけない。歩き回らなければ、世の中を知ることはできない。いろいろな人と話をし、自分も経験しなくてはいけない。 何かを知る。前は知らなかった。知ってみれば、目からうろこが落ちたという喜びがある。まずはその喜びから始めて、だんだんとその先へ向かっていってほしい 知の人となり、情の人となった人は、次に行動しなければいけない。行動すると、また次の世界が見えてくる。 行動すると、だいたいまずいことが起きることが多い。「まずくなってもやろう」という意志の力が必要である。つまり「意の人」にならなければ行動できない。 しかし世の中には、「知」も「情」も「意」も大したことないのに、自分は一人前になったと思っている人が多い。何をもって一人前とするかを、もっと根本から反省すべきだ。 借り物でも世間一般では通用してしまう。それなりの年齢になり、それなりの収入を得ている。学校も卒業して、会社では名刺がある。それで一人前になった。確かになっているかもしれないけれど、まだまだ残りがあるということに気がついてほしい。 わたしは、本当はそんなことはどうでもいいと思っている。人はそれぞれ幸せに暮らしていけばいいのだから、「これでいい」と思っている人に、「あなたはまだまだ足りない」などと言う気はまったくない。 ただ「何かいいことを言ってくれ」というオファーに対して、いいと思うことを言うと、みんな分からない。みんなが理解するための言葉もない、本もない、先輩もあまりいない。だからわたしは、いいことをかき集めてきて説明する。すると「そうかな」と思ってもらえる。 例えば「漫画やアニメは大事です」とか、「東京大学なんかすぐに潰れます」とか、わたしにはわたしなりの理屈があって、そういったことを言う。そうするとみんな「まさか」と言う。みんなだいたい「まさか」で暮らしている。だが、歴史を見れば、「まさか」がまさかではなく実際に起こり得ることが分かる。
行動には「機能快」がある 「行動する」とは、行動の重要性を体得することだ。理屈ではダメで、行動すれば分かる。行動する人はなかなかいないけれど、少しはいる。 以前、渡辺昇一さんに「機能快」という言葉を教わった。もともとはドイツ語か何かだと思う。人間の体にはいろいろな機能が備わっていて、その機能を発揮すると快感があるということを指すそうだ。 例えば、筋肉がある人は筋肉を使ってみたい。男性は、10代のころは筋肉をどんどん鍛えたくなる。鍛えれば伸びるから、快感を感じる。ジャンプ力のある人は少しでも高く遠くへ飛んでみたい。飛べたら快感を感じる。 同じことが前頭葉にも言える。前頭葉にも機能快がある。それをくすぐるような勉強法が、ちまたに出回っている。勉強をしたら「よくできたね」と褒めてあげると、勉強したくなる。それから、内臓にも機能快がある。「ラーメンを10杯食べたら無料」とか。 さらに、集団行動の機能快もある。人がたくさん集まって、太鼓を叩いて踊るようなことがあるだろう。それが集団機能快である。みんなとリズムをそろえて運動をしていると、大変な快感を感じるのだ。何か電波が出ているとか、ホルモンが出ているとか、説明はいろいろある。 それを日本人は広げて考える。動物と共生するとか、植物とも共生するとか、地球の生き物がみんなつながっているとかいうように、広げて考えていく。
宗教は集団的機能快を利用する ところが、ヨーロッパ人は集団機能快を動植物まで広げては考えない。それは聖書が悪い。聖書には、神様は特別に人間を作ったと書いてある。人間と動物とは違うと線を引いている。ヨーロッパでは、その影響がずっと続いている。 例えばカトリック教会は、神様の教えを伝えるために、いろいろなテクニックを使っている。宗教はみんな同じようなことをしているのだが、集団に何かを伝えるために、集団催眠術を使う。常識を破るような大きな建物が建立されれば、人々は「もう今までのことは通用しない。ここへ来たら特別だ」と思う。つまり、スイッチの切り替えになる。 仏教であれば、そこでお経を唱える。お経は単調で、意味がまったく分からない。分からないからいいのである。分かったら、催眠術から目が覚めてしまう。意味の分からないお経を単調なリズムで長々と聞くと、何となくありがたいような気持ちになる。大きな仏像を置いておくとか、そういうのも同じ。それは、どの宗教でもやっている。カトリックもやっている。 ただ、不思議なことに、カトリックはリズムのある音楽を禁止した。人間の大脳はリズムに弱く、聞くとすぐに酔ってしまう。逆にいえば、リズムで酔わせればすぐ信者になる。兵隊が出撃する前に太鼓を叩くのも同じような理由からだ。 実はそれは、ゲルマン民族がやっていた。その真似をしたのではありがたみがないから、高級な宗教であることを伝えるために、ローマカトリックはリズム音楽を禁止した。
日本人は人間を区切らない カトリックでは、朝の9時に礼拝が始まるとき、一斉に東の方を向いて、神をたたえる歌を歌った。すると神様がお喜びになると、勝手に思ったのだろう。 その歌声は、神様が一番お喜びになる声がいい。これは少女の美しい声である。だから女性の合唱団を作ればいいと思うのだが、それはしない。 これもまた聖書が邪魔になるのだが、聖書では女性の地位がすごく低い。神様のことが見えるのは男だ。キリストは男であるし、聖書では女性は神様と付き合える資格がないとされている。「神様をたたえる歌を歌うのは男であって、女は賛美歌を歌ってはいけない」というのが初期のカトリック教会である。 そこで、少女の歌声に近いボーイソプラノが選ばれた。少年たちの合唱団が、賛美歌を歌うのだ。それがやがて職業になっていく。職業になると、リストラされてしまうと困るから、去勢してでも高い声を続けようとする少年が出てくる。 何とも不自然な話である。集団行動の機能快で人間を片っ端から区切っていく考え方だと、そんなふうになってしまう。 日本人は区切らない。みんなあいまいに、総合的に考えるから、そうした面倒を起こさずに暮らしていくことができる。そして「一神教はダメです、多神教の方がいいです」とか、「あいまいな方がいいです」とか、日本的な考え方に至る。
「アクション」はアイデンティティにつながる 知の人になり、情の人になり、意の人になる。するとやがて、自分の世界が出来てしまう。それは閉鎖的にこもった世界ではなくて、行動を超えた自分の世界である。そして自然に仲間も出来ている。社会との一体感も自然に出来ている。つまり「行の人」、行いの人になる。 自分の世界を持つ。自分個人の世界ではなくて、社会とつながっている世界を持つこと。そこには、行うことで出来た友達がいる。それは「開発活動」ということもできる。 開発とは、今はまだないものを作り出すことである。ないものを作り出すことは、本当に面白い。それをアクションという。 アクトとは、自分から積極的に働きかけることをいう。ある意味では人を縛ることでもある。だから法律のことをアクトという。 アクションは通常、社会の支配階級が行う。ワークは下の人たちがする。アクションの面白さを知る人間になる、それはすなわち自己実現である。なぜならアクトとは、自分が「これがいい」とみんなに言うことだからだ。それは自然にアイデンティティになっていく。
歩き回って世の中を知る必要がある 自分の世界を持って、かつ社会に対して働きかけるというのは、ヨーロッパ的に言えば、神様の仕事を人間がすることである。しかし東洋的に言えば、人間が人間のことをしているだけである。 特に日本では、神様は人間の仕事をして田植えをする。天照大神は機織りをする。神様は、嫉妬もすれば人殺しもする。ギリシャ神話もそうで、神と人間をそんなに分けない。そういう世界に入っていけるだろう。 そうすると、相互扶助を実感できるようになる。誰かのために何かをすれば、いつかは自分にも回ってくる。自分に回ってこなくても、自分の子どもに回ってくるかもしれない。回ってこなくても、まあいいではないか。これは仏教の教えでもある。そういう幸不幸を知った人間になれる。 そのためには、やはり世の中を知らなければいけない。歩き回らなければ、世の中を知ることはできない。いろいろな人と話をし、自分も経験しなくてはいけない。 何かを知る。前は知らなかった。知ってみれば、目からうろこが落ちたという喜びがある。まずはその喜びから始めて、だんだんとその先へ向かっていってほしい
行動には「機能快」がある 「行動する」とは、行動の重要性を体得することだ。理屈ではダメで、行動すれば分かる。行動する人はなかなかいないけれど、少しはいる。 以前、渡辺昇一さんに「機能快」という言葉を教わった。もともとはドイツ語か何かだと思う。人間の体にはいろいろな機能が備わっていて、その機能を発揮すると快感があるということを指すそうだ。 例えば、筋肉がある人は筋肉を使ってみたい。男性は、10代のころは筋肉をどんどん鍛えたくなる。鍛えれば伸びるから、快感を感じる。ジャンプ力のある人は少しでも高く遠くへ飛んでみたい。飛べたら快感を感じる。 同じことが前頭葉にも言える。前頭葉にも機能快がある。それをくすぐるような勉強法が、ちまたに出回っている。勉強をしたら「よくできたね」と褒めてあげると、勉強したくなる。それから、内臓にも機能快がある。「ラーメンを10杯食べたら無料」とか。 さらに、集団行動の機能快もある。人がたくさん集まって、太鼓を叩いて踊るようなことがあるだろう。それが集団機能快である。みんなとリズムをそろえて運動をしていると、大変な快感を感じるのだ。何か電波が出ているとか、ホルモンが出ているとか、説明はいろいろある。 それを日本人は広げて考える。動物と共生するとか、植物とも共生するとか、地球の生き物がみんなつながっているとかいうように、広げて考えていく。
宗教は集団的機能快を利用する ところが、ヨーロッパ人は集団機能快を動植物まで広げては考えない。それは聖書が悪い。聖書には、神様は特別に人間を作ったと書いてある。人間と動物とは違うと線を引いている。ヨーロッパでは、その影響がずっと続いている。 例えばカトリック教会は、神様の教えを伝えるために、いろいろなテクニックを使っている。宗教はみんな同じようなことをしているのだが、集団に何かを伝えるために、集団催眠術を使う。常識を破るような大きな建物が建立されれば、人々は「もう今までのことは通用しない。ここへ来たら特別だ」と思う。つまり、スイッチの切り替えになる。 仏教であれば、そこでお経を唱える。お経は単調で、意味がまったく分からない。分からないからいいのである。分かったら、催眠術から目が覚めてしまう。意味の分からないお経を単調なリズムで長々と聞くと、何となくありがたいような気持ちになる。大きな仏像を置いておくとか、そういうのも同じ。それは、どの宗教でもやっている。カトリックもやっている。 ただ、不思議なことに、カトリックはリズムのある音楽を禁止した。人間の大脳はリズムに弱く、聞くとすぐに酔ってしまう。逆にいえば、リズムで酔わせればすぐ信者になる。兵隊が出撃する前に太鼓を叩くのも同じような理由からだ。 実はそれは、ゲルマン民族がやっていた。その真似をしたのではありがたみがないから、高級な宗教であることを伝えるために、ローマカトリックはリズム音楽を禁止した。
日本人は人間を区切らない カトリックでは、朝の9時に礼拝が始まるとき、一斉に東の方を向いて、神をたたえる歌を歌った。すると神様がお喜びになると、勝手に思ったのだろう。 その歌声は、神様が一番お喜びになる声がいい。これは少女の美しい声である。だから女性の合唱団を作ればいいと思うのだが、それはしない。 これもまた聖書が邪魔になるのだが、聖書では女性の地位がすごく低い。神様のことが見えるのは男だ。キリストは男であるし、聖書では女性は神様と付き合える資格がないとされている。「神様をたたえる歌を歌うのは男であって、女は賛美歌を歌ってはいけない」というのが初期のカトリック教会である。 そこで、少女の歌声に近いボーイソプラノが選ばれた。少年たちの合唱団が、賛美歌を歌うのだ。それがやがて職業になっていく。職業になると、リストラされてしまうと困るから、去勢してでも高い声を続けようとする少年が出てくる。 何とも不自然な話である。集団行動の機能快で人間を片っ端から区切っていく考え方だと、そんなふうになってしまう。 日本人は区切らない。みんなあいまいに、総合的に考えるから、そうした面倒を起こさずに暮らしていくことができる。そして「一神教はダメです、多神教の方がいいです」とか、「あいまいな方がいいです」とか、日本的な考え方に至る。
「アクション」はアイデンティティにつながる 知の人になり、情の人になり、意の人になる。するとやがて、自分の世界が出来てしまう。それは閉鎖的にこもった世界ではなくて、行動を超えた自分の世界である。そして自然に仲間も出来ている。社会との一体感も自然に出来ている。つまり「行の人」、行いの人になる。 自分の世界を持つ。自分個人の世界ではなくて、社会とつながっている世界を持つこと。そこには、行うことで出来た友達がいる。それは「開発活動」ということもできる。 開発とは、今はまだないものを作り出すことである。ないものを作り出すことは、本当に面白い。それをアクションという。 アクトとは、自分から積極的に働きかけることをいう。ある意味では人を縛ることでもある。だから法律のことをアクトという。 アクションは通常、社会の支配階級が行う。ワークは下の人たちがする。アクションの面白さを知る人間になる、それはすなわち自己実現である。なぜならアクトとは、自分が「これがいい」とみんなに言うことだからだ。それは自然にアイデンティティになっていく。
歩き回って世の中を知る必要がある 自分の世界を持って、かつ社会に対して働きかけるというのは、ヨーロッパ的に言えば、神様の仕事を人間がすることである。しかし東洋的に言えば、人間が人間のことをしているだけである。 特に日本では、神様は人間の仕事をして田植えをする。天照大神は機織りをする。神様は、嫉妬もすれば人殺しもする。ギリシャ神話もそうで、神と人間をそんなに分けない。そういう世界に入っていけるだろう。 そうすると、相互扶助を実感できるようになる。誰かのために何かをすれば、いつかは自分にも回ってくる。自分に回ってこなくても、自分の子どもに回ってくるかもしれない。回ってこなくても、まあいいではないか。これは仏教の教えでもある。そういう幸不幸を知った人間になれる。 そのためには、やはり世の中を知らなければいけない。歩き回らなければ、世の中を知ることはできない。いろいろな人と話をし、自分も経験しなくてはいけない。 何かを知る。前は知らなかった。知ってみれば、目からうろこが落ちたという喜びがある。まずはその喜びから始めて、だんだんとその先へ向かっていってほしい 知の人となり、情の人となった人は、次に行動しなければいけない。行動すると、また次の世界が見えてくる。 行動すると、だいたいまずいことが起きることが多い。「まずくなってもやろう」という意志の力が必要である。つまり「意の人」にならなければ行動できない。 しかし世の中には、「知」も「情」も「意」も大したことないのに、自分は一人前になったと思っている人が多い。何をもって一人前とするかを、もっと根本から反省すべきだ。 借り物でも世間一般では通用してしまう。それなりの年齢になり、それなりの収入を得ている。学校も卒業して、会社では名刺がある。それで一人前になった。確かになっているかもしれないけれど、まだまだ残りがあるということに気がついてほしい。 わたしは、本当はそんなことはどうでもいいと思っている。人はそれぞれ幸せに暮らしていけばいいのだから、「これでいい」と思っている人に、「あなたはまだまだ足りない」などと言う気はまったくない。 ただ「何かいいことを言ってくれ」というオファーに対して、いいと思うことを言うと、みんな分からない。みんなが理解するための言葉もない、本もない、先輩もあまりいない。だからわたしは、いいことをかき集めてきて説明する。すると「そうかな」と思ってもらえる。 例えば「漫画やアニメは大事です」とか、「東京大学なんかすぐに潰れます」とか、わたしにはわたしなりの理屈があって、そういったことを言う。そうするとみんな「まさか」と言う。みんなだいたい「まさか」で暮らしている。だが、歴史を見れば、「まさか」がまさかではなく実際に起こり得ることが分かる。
行動には「機能快」がある 「行動する」とは、行動の重要性を体得することだ。理屈ではダメで、行動すれば分かる。行動する人はなかなかいないけれど、少しはいる。 以前、渡辺昇一さんに「機能快」という言葉を教わった。もともとはドイツ語か何かだと思う。人間の体にはいろいろな機能が備わっていて、その機能を発揮すると快感があるということを指すそうだ。 例えば、筋肉がある人は筋肉を使ってみたい。男性は、10代のころは筋肉をどんどん鍛えたくなる。鍛えれば伸びるから、快感を感じる。ジャンプ力のある人は少しでも高く遠くへ飛んでみたい。飛べたら快感を感じる。 同じことが前頭葉にも言える。前頭葉にも機能快がある。それをくすぐるような勉強法が、ちまたに出回っている。勉強をしたら「よくできたね」と褒めてあげると、勉強したくなる。それから、内臓にも機能快がある。「ラーメンを10杯食べたら無料」とか。 さらに、集団行動の機能快もある。人がたくさん集まって、太鼓を叩いて踊るようなことがあるだろう。それが集団機能快である。みんなとリズムをそろえて運動をしていると、大変な快感を感じるのだ。何か電波が出ているとか、ホルモンが出ているとか、説明はいろいろある。 それを日本人は広げて考える。動物と共生するとか、植物とも共生するとか、地球の生き物がみんなつながっているとかいうように、広げて考えていく。
宗教は集団的機能快を利用する ところが、ヨーロッパ人は集団機能快を動植物まで広げては考えない。それは聖書が悪い。聖書には、神様は特別に人間を作ったと書いてある。人間と動物とは違うと線を引いている。ヨーロッパでは、その影響がずっと続いている。 例えばカトリック教会は、神様の教えを伝えるために、いろいろなテクニックを使っている。宗教はみんな同じようなことをしているのだが、集団に何かを伝えるために、集団催眠術を使う。常識を破るような大きな建物が建立されれば、人々は「もう今までのことは通用しない。ここへ来たら特別だ」と思う。つまり、スイッチの切り替えになる。 仏教であれば、そこでお経を唱える。お経は単調で、意味がまったく分からない。分からないからいいのである。分かったら、催眠術から目が覚めてしまう。意味の分からないお経を単調なリズムで長々と聞くと、何となくありがたいような気持ちになる。大きな仏像を置いておくとか、そういうのも同じ。それは、どの宗教でもやっている。カトリックもやっている。 ただ、不思議なことに、カトリックはリズムのある音楽を禁止した。人間の大脳はリズムに弱く、聞くとすぐに酔ってしまう。逆にいえば、リズムで酔わせればすぐ信者になる。兵隊が出撃する前に太鼓を叩くのも同じような理由からだ。 実はそれは、ゲルマン民族がやっていた。その真似をしたのではありがたみがないから、高級な宗教であることを伝えるために、ローマカトリックはリズム音楽を禁止した。
日本人は人間を区切らない カトリックでは、朝の9時に礼拝が始まるとき、一斉に東の方を向いて、神をたたえる歌を歌った。すると神様がお喜びになると、勝手に思ったのだろう。 その歌声は、神様が一番お喜びになる声がいい。これは少女の美しい声である。だから女性の合唱団を作ればいいと思うのだが、それはしない。 これもまた聖書が邪魔になるのだが、聖書では女性の地位がすごく低い。神様のことが見えるのは男だ。キリストは男であるし、聖書では女性は神様と付き合える資格がないとされている。「神様をたたえる歌を歌うのは男であって、女は賛美歌を歌ってはいけない」というのが初期のカトリック教会である。 そこで、少女の歌声に近いボーイソプラノが選ばれた。少年たちの合唱団が、賛美歌を歌うのだ。それがやがて職業になっていく。職業になると、リストラされてしまうと困るから、去勢してでも高い声を続けようとする少年が出てくる。 何とも不自然な話である。集団行動の機能快で人間を片っ端から区切っていく考え方だと、そんなふうになってしまう。 日本人は区切らない。みんなあいまいに、総合的に考えるから、そうした面倒を起こさずに暮らしていくことができる。そして「一神教はダメです、多神教の方がいいです」とか、「あいまいな方がいいです」とか、日本的な考え方に至る。
「アクション」はアイデンティティにつながる 知の人になり、情の人になり、意の人になる。するとやがて、自分の世界が出来てしまう。それは閉鎖的にこもった世界ではなくて、行動を超えた自分の世界である。そして自然に仲間も出来ている。社会との一体感も自然に出来ている。つまり「行の人」、行いの人になる。 自分の世界を持つ。自分個人の世界ではなくて、社会とつながっている世界を持つこと。そこには、行うことで出来た友達がいる。それは「開発活動」ということもできる。 開発とは、今はまだないものを作り出すことである。ないものを作り出すことは、本当に面白い。それをアクションという。 アクトとは、自分から積極的に働きかけることをいう。ある意味では人を縛ることでもある。だから法律のことをアクトという。 アクションは通常、社会の支配階級が行う。ワークは下の人たちがする。アクションの面白さを知る人間になる、それはすなわち自己実現である。なぜならアクトとは、自分が「これがいい」とみんなに言うことだからだ。それは自然にアイデンティティになっていく。
歩き回って世の中を知る必要がある 自分の世界を持って、かつ社会に対して働きかけるというのは、ヨーロッパ的に言えば、神様の仕事を人間がすることである。しかし東洋的に言えば、人間が人間のことをしているだけである。 特に日本では、神様は人間の仕事をして田植えをする。天照大神は機織りをする。神様は、嫉妬もすれば人殺しもする。ギリシャ神話もそうで、神と人間をそんなに分けない。そういう世界に入っていけるだろう。 そうすると、相互扶助を実感できるようになる。誰かのために何かをすれば、いつかは自分にも回ってくる。自分に回ってこなくても、自分の子どもに回ってくるかもしれない。回ってこなくても、まあいいではないか。これは仏教の教えでもある。そういう幸不幸を知った人間になれる。 そのためには、やはり世の中を知らなければいけない。歩き回らなければ、世の中を知ることはできない。いろいろな人と話をし、自分も経験しなくてはいけない。 何かを知る。前は知らなかった。知ってみれば、目からうろこが落ちたという喜びがある。まずはその喜びから始めて、だんだんとその先へ向かっていってほしい
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