ミートホープ、NOVA、コムスン 3つの企業の挫折が物語ること
ここのところ相次いで似たような事件が3件起きている。一つは、折口雅博会長が率いるグッドウィル・グループの「コムスン」、もう一つは、“駅前留学”の「NOVA」、さらにもう一つは、北海道苫小牧市の食肉製造加工会社「ミートホープ」の事件だ。3つの企業の挫折折口氏がコムスンを買収したとき、僕は「いいセンスだなあ」と思った。介護保険ができて、「これからは介護の時代だ」と、新しいマーケットに乗り込んだ彼を、なかなか面白いと思った。「ジュリアナ東京」や「ヴェルファーレ」といったバブル時代のディスコの成功から、全く趣の異なる介護への転身とは面白い、今度は介護の世界でどんな活躍を見せてくれるのかと期待していた。そして、コムスンはどんどん大きくなり、いわゆる“出前介護”では日本一になった。英会話教室のNOVAについても、いつの間にかどこへ行ってもNOVAの看板が目に入るようになったし、“駅前留学”というキャッチフレーズも上手い。ミートホープという会社については、僕は詳しくは知らなかったが、なかなか繁盛しているということだった。これらの3つの会社が、ここにきていずれも法を犯していたことが発覚して、挫折した。3つの企業にみる共通の問題点新しくのし上がる会社というのはたいてい非難を受ける。それは堀江貴文氏の「ライブドア」にしても村上世彰氏の「村上ファンド」にしても同じである。今度僕が『正義の罠』で書いた「リクルート」もそうだった。新しい者がのし上がると、旧体制の企業たちは脅威に感じて仲間にしない。そして何か事あるごとに非難する。マスコミも、“強きを助け、弱気を挫く”から、新興企業を叩く。こういうことを何度も見てきたから、僕は「新興企業には何とか伸びて欲しい」といつも思っているのだ。特に、コムスンやNOVAは、どこまで伸びるのかと期待していたら挫折してしまった。コムスンの場合は、コムスンの失敗というよりは、厚生労働省の方が悪いという面もあるのではないのか。新しい介護市場開拓にあたって、折口雅博という、何でもバーンと飛びつく人間を上手く使って、コムスンで実験をしてみたのではないか。コムスンはその期待に応えようと頑張ったが、どうももともと描いていたビジネスモデルに無理があって破綻した。そして破綻を誤魔化し誤魔化し、逃げ切ろうとしたが逃げ切れなかった。NOVAの場合は、基本的マネジメントに問題があった。一番は講師の問題だった。多くの講師を簡単に集めるのだが、その契約などを巡って様々な問題が起き、内部告発された。もちろんお客さんに対しても、マネジメントの問題でトラブルが起きた。ミートホープもそうだ。基本的な経営体質に問題があったのだ。残念なことだが、ベンチャー企業というのは、どこかで勤めた経験がある人が始めると上手くいくことが多い。例えば、「ローソン」の新浪剛史社長や、「マネックス証券」の松本大社長などだ。本当に上手くいっていると言えるか定かではないが、「楽天」の三木谷浩史社長もそうだ。三木谷氏はかつて興銀にいた。勤めた経験のある人が、ベンチャーでも上手くいく。それはなぜかというと、勤めることで社会を知るからだ。立体的な人間関係がマネジメント力につながる今、学校の中がバラバラで、特に公立学校では問題が多発しているということがよく言われるが、それは「人間の立体的関係」がないからだ。昔は地域があったので、自分の周りにたくさんの先輩がいた。先輩がいて、同輩がいて、そのうちに後輩も出てくる。このような立体的な相互関係の中で、人間同士の間で絶対に守らなくてはならないことや、裏切ってはならないこと、信頼されるためにはどうしなければならないか、ということを学ぶ。勤めた経験のある人は、会社という組織の中で否応無しにこれを体験する。先輩・同輩・後輩との関係の中で、ギリギリの人間関係を保つためのルールや、あまり言葉はよくないかも知れないが倫理のようなもの、あるいは、チームワークのようなものを覚えていくのだ。ところが、失敗する経営者たちは、のし上がりはするが、チームワークの経験がない。チームワークの経験がないと、独裁者になってしまい、自分にとって都合のよい流儀を強いてしまう。気に入らないものはすぐに首を切ってしまうこともある。そういった矛盾のようなものが、今出てきたと感じている。失敗するベンチャー経営者の多くが、かつて勤めた経験がなく、立体的な人間関係を経験していない。折口氏は、日本ユニバック(現・日本ユニシス)や日商岩井(現・双日)に入社した経験があるが、すぐに辞めている。立体的な人間関係というのはマネジメントにつながる。多くの企業がこの管理・経営の部分で欠陥が次々と露呈するというのは、まことに残念なことだと感じていた。徹底的な自己保身の官僚が犯した過ちところが、この人間関係や管理ということだけで生きているはずの人たちが同じエラーをやらかした。これが社会保険庁だ。官僚というのは、「省あって国なし」。そして、絶対に自己保身で保守的であり、革新的ではあり得ない。絶対に自分たちの間違いは認めない。官僚が自分たちの間違いを決して認めないということの典型的な例が不良債権だ。バブルがはじけた後、不良債権がいっぱい出た。不良債権が出たということはどこかで金融政策を失敗したということになる。だが、これを認めたくないから不良債権を隠した。歴代の内閣がこれを隠し続けてつぶれていき、やっと小泉内閣でこの問題に取り組んだ。過ちを認めたくないから隠す。C型肝炎もそうだ。しかし、官僚は少なくともオペレーションはちゃんとやっていると思っていた。計算間違いはしないとかそういうことだ。ところが、オペレーションの部分で、社会保険庁が決定的に間違いを犯しているということが発覚した。そうなると、こいつらは何にもないじゃないか、ということになる。保身主義で、天下りは作るし、国のことやらずに省のことばかりしか考えないし、その上オペレーションまで間違えた。国民の怒りはこうした部分が大きい。許されない警視庁の情報流出もうひとつ最近起きたのが、警視庁の情報流出の問題だ。最初は26歳の巡査長がファイル交換ソフト「ウィニー」を使って、そこから1万件もの捜査情報が流れた。犯人や被害者のプライバシーも流れてしまった。よく調べると、その巡査長の上の巡査部長が情報を流していた。さらに、その巡査部長も何人もの警察官から情報をもらっていたことがわかた。そのネズミ算式に膨れ上がり、数十人、何百人という人間が情報をコピーし合ったり流し合っていたりした可能性がある。まったくの個人情報である捜査情報を、だ。いやしくも警官が捜査情報を流すとは、これは一番やっていけないことだ。どこかの企業で同じようなことが起きた場合、取り締まるのが警察官であるはずだ。警察官というのは、もし捜査が下手でなかなか犯人を捕まえることができなくても、「警察官とは何か」ということは心得ているものと信じていたら、その部分を履き違えてしまっていることが露呈した。哲学なき時代の腐敗が噴出コムスンやNOVA、ミートホープ、社会保険庁、警視庁。ここに来て、戦後の日本の悪い部分、あるいは腐敗した部分、抜け落ちた部分と言ってもよいかもしれないが、それが噴出しているように思う。これはいったい何なのか。かつて旧制高校のあった時代は、高校でカントやヘーゲル、ショーペンハウエルなど、「哲学」を学んだ。哲学を学ばないと正しい人間としては認められないということだった。アメリカでは博士号を哲学博士、phD(Doctor of Philosophy)という。医学博士でもphD。マックス・ウェーバーが「職業としての政治」ということを言い出して、「職業としての」という部分が重視されるようなってきたが、マックス・ウェーバーは「職業としての」ということを強調しても、そこには必ず道徳ということを置いていた。しかしだんだんと道徳が抜けて「職業として“プロ”である」ということが強調されるようになった。その“プロ”というのは、企業で言えば金をもうけるということだった。哲学でああだこうだ言ってもどうでもならない、哲学なんてくそ食らえだ、といわれて、哲学というものが一顧だにされない時代になってきた。そして“プロの時代”になった。重要なことが欠落したプロフェッショナルたち僕らもセミプロではなくプロになれと言ったし、日本のメディアも大きなところではプロの要請をやってきたと思う。ところが、プロとして重要なところが欠落したプロが氾濫してしまった。本来のプロとは何か。企業で言えばお客さんを大事にすることだ。お客さんのためになることをやる。ところがコムスンもNOVAもミートホープもお客さんを一顧だにしていない。金儲けばかり考えて客をまったく見ていなかった。客を見ていればこんな事件は起こるはずがない。同じように社会保険庁や警視庁も、自身が本来どういう存在なのかということをまったく見失っている。社会保険庁とは何か。それは「年金の掛け金を回収して65歳になったら払う」。非常に単純なことだ。ところが年金を払ってくれる人をまったく無視している。警察も、捜査をすることが大事なのであって、その捜査をする上で捜査情報というものはマル秘中のマル秘であるはずだ。それを集団で流出していた。官僚は税金で食っている、タックス・イーターなのに、タックス・ペイヤーのことをまったく考えていない。警察も街や地域の安全を守るべきはずなのに、その安全を脅かす情報を流した。プロ、プロと言い続けたら、金儲けがプロということになってしまった。今、「プロである」ということ自体が破綻してしまっている。これは、現代の日本の重大な問題だと思っている。哲学に戻れということを言っているのではない。もう一度「プロとは何か」をとことん考え直さなくてはならない、ということだ。プロとして一番大事なところが欠落してしまっていることに危機感を抱いている。いま改めて問われる「信頼」本当はこういうことを言うのは、僕は一番嫌いなのだ。説教ぽくて、年寄りのひがみだとも思う。しかし、ここまで相次いでまったく同じ質の事件が起きると訴えずにはいられない。谷垣禎一議員が「契り」ということを言ったが、そこが壊れたらどうしようもない。しかしそれを壊すことを平気でやっている。ここで宗教や教育ということ言い出すと、また違う方向へ行ってしまう。人間と人間の関係において、信頼し合える何かがあって、そこをお互いに裏切らないということが大切なのだと思う。こういう話題をすると、必ず「だから金儲けはだめなんだ」という道徳者が出てくるが、それは違うと思っている。金を儲けることはその商売を続けるためには不可決だ。金儲けは二の次にしろと言われることもあるが、そんなことをしたら会社は倒産するたけだ。僕は、目的が利益を上げることでもよいと思う。しかし、利益を上げ続けるためには信頼が何よりも大切なのだ。今、自由競争をするとモラル・ハザードが起きると言われているが、これは間違いだ。社民党的な方向へ行ってもモラル・ハザードは起きる。その一番良い例がソ連や北朝鮮だ。金儲けは大事だ。しかし、金を儲け、商売を続けていくためには、お客さんや関係事業者との信頼関係を続けることが何よりも大事なのだ。そこを再確認しなければならない。残念ながらコムスンらは、お客さんとの信頼関係を破った。村上氏も堀江氏もそうだ。この国にとっての「正義」とは何かさらに言いたいのは、今、政治がそこをわかっているのか、ということだ。社会保険庁もタックス・ペイヤーを無視し裏切り続けている。警察も、自身が何のために存在しているかということをまったく忘れている。ここに政治家が気づいているか、ということが問題だ。今、参議院選挙のために大事なことが忘れられている。人口減少社会の中で、一千兆円を超える借金をどうするのか。年金法を変えて税制を変えなければならないだろう。ところが、そういう肝心なところがまったく話題にならない。マスコミも、話題にならないことに危機感を持たない。このところマスコミは「安倍首相が何議席なら辞めるだろう」ということばかり騒いでいる。本人に「○○議席なら辞める」ということを言わせたくて仕方がないのだ。マスコミは、ミートホープや社会保険庁らを叩いているが、叩いているがマスコミも悪いことばかりやっている。NHKや放送内容の偽造問題など枚挙に遑がない。この国にとって「正義」とは何か、もう一度問い直してみる時期にきているのかもしれない。
0 Comments:
Post a Comment
<< Home