Saturday, June 30, 2007

ハイリゲンダムG8での地球温暖化問題

今回のサミットで重要な議題は、地球温暖化の問題であった。ドイ
ツや欧州は風力発電やリサイクル、排気ガス取引市場で一歩先を行
くために、温暖化問題関連で経済上の利益を得る可能性が高い。

また、京都議定書が失効する2012年以降の排出ガスの削減に
ついて、主要国が多国間協定の締結に向かわなければ、地球の温暖
化は悲劇的な結果になる。

そして、サウジアラビアの国内生産の半分を頼る世界最大ガワール
油田の石油産出量が減少して、石油生産量は今後大きく削減する状
態になることが分かっている。このため、石炭火力が再度盛んにな
る可能性がある。石炭は石油よりCO2を沢山出す。

G8の米国やオブザーバの中国は電力やエネルギーの60%以上を
今も石炭で賄っているために、排ガス規制を掛けられると経済的な
制約が出ると反対している。

しかし、米国のハリケーンも地球温暖化で強力になり、多大な被害
をメキシコ湾岸地域に与えていることで、米国民意識も変化してき
ている。それと、排気ガス減少をしない米企業の活動を欧州では制
限する方向である。このため、米企業や米国の各州でも排気ガス減
少の独自制限を設けて努力するようになっている。

このような状態の中で、このサミットでは「すべての主要国による
削減の枠組みで、二〇五〇年までに地球規模の温室効果ガスの排出
を少なくとも半減させるよう真剣に検討する」ことで合意した。

京都議定書の枠組みを離脱していた最大排出国の米国が、次期枠組
みには参加することが決まった。米国の参加がなければ、ポスト京
都の交渉自体がほとんど意味を失う。この事態だけは回避できた。
次期枠組みは、〇九年までに国際合意を目指すと期限を切った。

中国も次期枠組みへの参加をしてほしいですね。しかし、中国は発
展途上国と組んで、反対をするはず。経済的に損だからである。

しかし、日本は次期枠組みができると有利な位置にいることになる。
原子力発電、省エネ技術、電気自動車、たんぱく質合成など日本企
業が得意分野がますます注目されることになる。

温暖化問題でも裏にも、各諸国は経済的に損か得かの駆け引きをし
ている。米国がイラク戦争に負けることが明らかになり、イラクの
石油が手に入らなくて、次世代戦略を変更してきている。また、ゴ
アが出てきたことで分かる。米国は次世代戦略で苦しんでいる。
しかし、米国の戦略変更により、世界の枠組みも変化する。
その観点を忘れずに!!

海のシルクロードについて(日本とローマの道)

シルクロードというと砂漠を行く道を、NHKのシルクロードで放
送したために日本人は強く印象を付けられているが、物資輸送面か
らは海のシルクロードの方が重要である。江戸時代、陸の東海道よ
り、物資輸送面では江戸と大阪を結ぶ弁天船の方が重要であったの
と同じ論理である。

そして、この海のシルクロードの中継貿易港で栄えた国が多数ある。
7世紀に唐が中国にでき、かつ欧州には東ローマ帝国、中にイスラ
ム帝国があり、中国の絹や陶磁器など、東南アジアの香料や香木を
欧州に運んだ。豊かなイスラム文化が栄えたのも、この東西を結ぶ
イスラム商人たちが活躍し、莫大な利益を得たことによる。

欧州と中国を結ぶ中継貿易港は、アルクサンドリア、カイロ(エジ
プト)、バクダッドなどのイスラム商人、インドの商人、チャンパ
、シュリービジャヤなど東南アジアの国々が中継貿易の商人として
活躍している。

欧州からは香水や宝石などを売出され、東南アジアは欧州や中国に
香料、香木などを売り、中国からは絹、陶磁器などを手に入れた。
また中国にはインドや欧州文化が流入したのである。仏教・景教や
イスラムの工芸品に使われるコバルト・ブルーなどの色でできた文
様などが中国に流入した。イスラムは工芸品を作り、貿易品として
いた。

アジア諸国には金や銀を貿易品との代わりに欧州諸国は支払うこと
が多った。この金銀が欲しくて、欧州は次の時代、中南米を侵略す
ることになる。しかし、マルコポーロが金に輝くジパングと言った
国を目指したので、これは明確に日本侵略を目指した行動であるこ
とになる。このことを豊臣秀吉が知り、日本の防衛を確実にするた
めに朝鮮出兵したという説もあるくらいである。

日本ではマルコポールが有名であるが、この同時代にイスラム教徒
イブン=バットゥータが旅行して手記を残している。この時代の主
役はイスラムの商人である。世界貿易の主体として活躍し、その活
躍を為替などの金融制度が支えていた。

イスラム商人が力を得た理由は鉄の釘を使用しない縫合型船ダウに
ある。最大級のアラブ・イラン系のダウ船の長さでも30M前後で
あり、また船首と船尾が尖ったダブルエンダー型であったようだ。
南インドからのチーク材やココヤシ・ナツメヤシ材が使われていた。

最大級の船で1隻当たり1トンの積み荷を収容し、1隻平均400
人が乗り込んだようだ。帆装についてはマストが2本であるが、1
本は見張り台の可能性もあり、三角帆であった。帆布はナツメヤシ
やココヤシの葉と繊維をむしろ状に編んだものや亜麻布、木綿など
の織布が用いられた。ダブルエンダー型の船尾のため、船尾につけ
る舵は発達しなかった。穴のあいた複数の石(大理石)の錨が用い
られたようだ。そして、船員は黒人奴隷である。

普通は30Mより小さい商業船が多数で貿易していたようだ。航海
用羅針盤がイスラム世界に導入されたのは13世紀で、これによって
航海術は飛躍的な進歩をとげた。磁気現象と磁針は、これに先立つ
数世紀前に中国で発見されていたが、磁針をピヴォットで支えた羅
針盤を航海に初めて利用した。

明の鄭和の南海大遠征は、第2次「大航海時代」が終わり、「アジ
アの海の繁栄期」も過ぎて、さらに15世紀の変わり目から、それが
安定期となっていた時期に行われた。ポルトガルの大遠征は海のネ
ットワークを再編成して統制下に置こうとしたが、明は伝統的な慣
行を重視し、既存のネットワークの中で、最大限明の声望を高めた
ようとしたように感じる。

そして、今、世界は、欧米中心の世界から大変化して、中国やイン
ド、ロシアなど多数の国が平等な力で組み立てられる世界に変化し
ようとしている。この世界観は、15世紀以前にあった世界観を蘇
らすことが必要になっている。そうしないと世界の見方が歪のまま
では、日本の発展はない。

欧米中心の見方しかできない政治家やビジネスマンを多く見かける
が、一日でも早く、15世紀以前の東南アジアから日本までの海の
豊かな恵みに気がついてほしいと思う。東アジア共同体は15世紀
以前の秩序を取り戻すことであるとも見ている。

北朝鮮問題が急転直下、解決した。この悲しい検討とそれによる日

チェイニー副大統領が日本の味方になり、北朝鮮のBDA預金の転
送を止めていた。しかし、ここで日本の国会議員や知識人がワシン
トン・ポストに「従軍慰安婦はなかった」という広告を大々的に出
した。このコラムでは、再三、先の戦争正当化は大きな国益の破損
に繋がると主張したが、日本の知識人たちは米国に主張し始めた。

それにしても、この広告の逆効果は目を見張る物がある。米国の知
識人は「米国は戦前の悪い日本を戦争で滅ぼし、いい日本を作った。
いい日本になったのは米国の貢献である」という意見である。戦争
中の日本は悪いことをしたのは常識である。米国の教科書もそう記
述されている。この米国の知識人の常識を著しく侵し、感情的な反
発を起こした。

勿論「従軍慰安婦謝罪法」の議案は下院で議決されるでしょうが、
それだけでは済まない。一番大きな問題は日本が関わる多くの国際
交渉で、日本は米国の支持を得られなくなることである。

日本を支持してくれていた米国タカ派知識人の中心であるチェイニ
ーは立場がなくなった。チェイニーに対して、申し訳ない気持ちを
持つ。日本は、チェイニーの貢献を仇で返したことになって
しまった。日本の安倍首相が米国で謝罪したことで、チェイニーは
日本を許したが、このワシントン・ポストの広告は日本が謝罪をし
ていないことになり、米国タカ派知識人は許さない、容赦しない。

日米は理念の対立に陥ったことになる。利害対立は簡単に調整でき
るが、理念の対立は簡単に調整ができない。日米イデオロギー対決
に発展する可能性は高いことになった。

このため、北朝鮮問題でライスの意見が通ってしまった。北朝鮮問
題を早期に解決することが米国の政権内部で決定した。日本の拉致
問題への考慮はされないことになったのである。ヒル次官補を助け
たのは、韓国でもなく、中国でもなく、日本の愛国的国会議員や知
識人たちの広告であった。急転直下、米国は北朝鮮に大きく譲歩し
かつ、BDA資金はロシアに移管された。

そして、アジアの中心は米国内では中国になっている。知日派の政
権内の人脈はほとんどない状態になっているが、今後も中国中心で
米国内部には日本を考慮する人たちが確実にいなくなる。

このため、拉致問題では日本は孤立することになる。それでも北朝
鮮に資金を出してはいけない。それを日本が乗り越えることで国際
政治の大国化を果たすことになる。米国の主張から離れる。今まで
は日本独自の主張をすることはなかったが、今回はすることになる。
これが政治大国化になる理由である。

とうとう、日米関係に大きな転換点を作ったことになった。この広
告は歴史上のマイルストーン的な位置づけになると見る。

そして、米国も従軍慰安婦の議案は下院・上院でも可決するでしょ
うから、日本人の反発を米国が今後は受けることになる。日米同盟
の維持は当分続くでしょうが、徐々に日本は脱米入亜になるでしょ
うね。
日本は米国離れになり、経済もアジア内での相互貿易が大きな位置
を占めることになる。このため、日本は速くアジアにその向きを変
える必要が出ている

北朝鮮問題を交渉カードという面から見直すとどうなるか検討しよ

米国のヒル国務次官補は、日本を抜きに4ケ国協議をして事態を進
展させようとしている。米国のチェイニー副大統領と日本がヒル次
官補の邪魔をしていたが、それを除外したので、とうとう自分の思
いとおりになると見た。

しかし、交渉進展でヒル次官補の思い通りにはなっていない。
なぜか?

米国の交渉進行の役割は、BDAから資金を送金した時点で終わっ
ている。米国は、今後の交渉進展で何かの恩恵を北朝鮮に与えられ
るかというと、あまりない。交渉カードがない。そこをヒル次官補
は認識不足である。

米国は北朝鮮に敵国指定を外すぐらいで、大きなメリットを北朝鮮
に与えられない。中国は軍隊を国境線に10万以上張り付けて、北
朝鮮の内部で混乱があったときに、直ぐに侵攻できるようにしてい
る。北朝鮮の安全保障を握っている。中国は不の交渉カードである。
国境貿易を止めることも不の交渉カードで、交渉進展の切り札カー
ドではない。

韓国は生きるぎりぎり程度の経済的な援助をして、北朝鮮が崩壊し
ての統一を阻止することを狙いとしている。このため、毎年の援助
は100億円程度であり、北朝鮮経済を浮上させるような金額では
ない。交渉カードにはなるが、大きな進展を得ることはできない。

しかし、ヒル次官補が排除しようとする日本は、2兆円以上の経済
援助を行うと宣言している。2兆円以上の日本からのODAで中国
も韓国も経済的な発展を成し遂げている。

この2ケ国は日本のODAのすばらしさを実感している。ODAと
ともに日本企業が進出して、地元企業を育成する。徐々に地元企業
に技術移転している。東南アジアや中国が工業化を果たすのは、日
本企業の技術移転によっている。

このため、韓国も中国もヒル次官補の提案である4ケ国協議を拒否
し、日本を参加させる6ケ国協議を提案している。北朝鮮との交渉
を進展させるには日本が必要と認識している。北朝鮮も2兆円の経
済援助がほしいために、拉致被害者の再調査を金正日書記長は指示
を出すことになる。世界第2位の経済大国の実力を日本人は見失う
ことがあるが、周辺諸国は日本の実力を知っている。

しかし、北朝鮮軍部は急速な米国との平和を望まないし、日本の朝
鮮総連締め付けに反対している。このため、協議の進展を阻止する
ためと、日本の朝鮮総連締め付け反対で、日本海に弾道ミサイルを
発射することになる。

やっと、北朝鮮から日本へのミサイル発射の根拠が出てきた。北朝
鮮の金づる朝鮮総連を日本は数々の問題で追いつめ、じり貧状態に
している。このため、日本に対して歯ぎしりしている。

北朝鮮の軍部は、総連締め付けをする日本を狙うことになる。そし
て、日本は反戦的な国民世論上から反撃してこないと読んでいる。
北朝鮮軍部は日本の自衛隊を張子の虎というより、張子の猫と見て
いるようだ。

Friday, June 29, 2007

女子高生も「経験不足」と嘆く 未熟な安倍首相

どの世論調査をみても、安倍内閣の支持率はガタ落ちである。参院選での自民党敗北はほとんど必至という状況である。最近の「週刊新潮」は、全国29の1人区で5勝24敗して、最悪34議席(改選64議席)という予測すら出している。自民党内では早くも勝敗ラインの線引きと、責任ラインの線引きをめぐる甲論乙駁がはじまっている。ハードルを下げることがさらなる大敗を招く安倍首相サイドはちょっとやそっと敗北しても、首相辞任に追いこまれたりしないように、ハードルを低く低くしようとしている。中川幹事長は「過半数割ったくらいでの退陣などありえない」などと強調している。しかし、この手の発言がすぎると、党内には戦う前から敗北気分がみなぎってしまって、予測以上に敗ける一因を作ってしまうかもしれない。いまや安倍首相は、人気回復に少しでも効果がありそうなパフォーマンスは何でもやりますという気分になっているらしくて、環境問題の新聞広告に出てみたり、年金問題の責任をとると称して夏のボーナスの一部を返上してみたり、戦没者の慰霊に沖縄を訪れてみたりしている。しかし、やることなすこと裏目裏目と出てしまい、環境問題の広告では、巨額の広告費の資金の流れが不透明と週刊誌に書かれたり、ボーナス返上については、「なんで一部だけしか返納しないんだ」の声が出たりしている。女子高生も「経験不足」と嘆く 未熟な安倍首相よ、政権を去れ!本当のところ、どれだけ返納するかは新聞報道によってちがいがあり、560万のボーナスに対して、返納額は数百万としているところもあれば、73万円としているところもある。後者が正しいとすれば、あまりにもわびしい金額で、はかりしれないほど巨額の損失を国民に与えた「消えた年金」問題の責任のとり方としては、ほとんど国民を愚弄するものといってよい。月々巨額の給与をもらい、巨額の資産を保有している身なのだから、どうせパフォーマンスとしてやるなら、きれいさっぱり全額返納してみせるべきだったろう。このあたりが、安倍首相の政治センスのなさである。政治センスの欠如が意欲の空回り生む安倍首相は決してバカでもなければ、本質的に無能な人間でもない。意欲もあれば、努力もいろいろしているようである。しかし、やることなすこと裏目に出て、努力は評価されない。意欲は空回りする。なぜかといえば、その言動に政治センスがないからである。政治センスとは何か。自分の言動が生みだす政治効果をすばやく直感的に計算して、それを最大化する方向に言動をすぐに微調整する能力である。小泉前首相はそれが抜群にあった。安倍首相はそれが悲しいほどないから、意欲も努力も空回りをするというより、逆効果の方向に働いてしまう。パフォーマンスに終わった沖縄慰霊の旅いま話題の従軍慰安婦問題にしてもそうだ。つい先日、米議会から突きつけられた、「責任を明確な形で認め公式に謝罪すべきだ」の決議にしても、この決議案が最初に出されたのは今年1月ごろだが、そもそもそのとき出した談話がまずかった。その中で、強制性を認めた河野談話を踏襲する立場を表明したものの「(狭義の)強制性はなかった」などという妙に細部にこだわった但し書き付きの談話にしたために、アメリカ側の反発をまねいた。4月の訪米時にアメリカの野党、市民団体、マスコミからこの問題をむし返され、さらにまた今回の決議案可決にまでいたってしまったのである。謝るときめたら、細部にこだわらず、きれいさっぱり謝っておけば(河野談話を認めておけば)、ここまで問題をこじらせることはなかっただろう。沖縄訪問でも、ちょうど安倍首相の訪問時に、戦争の最終段階での軍部からの住民に対する自殺(玉砕)の強要があったとする歴史教科書の記述に対して、文科省が、強要の証拠が十分にあるわけではないことを理由にその記述の書き直しを命じるという問題が起きた。安倍首相の慰霊の旅は、地元の人からは、心からの慰霊心があっての旅ではなく、パフォーマンスの旅と受けとられてしまった。このときも安倍首相がすぐに事態の重要性をつかんで適切な行動(文科省をたしなめるなど)をとっていれば、あれほどネガティブなイメージで受け取られなかったろうに、打つ手打つ手が手遅れの反応ばかりだったから、事態をどんどん悪くしたこの人の議会におけるさまざまな問題についての答弁にしても、あるいはいろんな政治的パフォーマンスにしても、妙な細部へのこだわりから、単純明快なメッセージ性を欠くことが多い。大衆に訴えかける政治的メッセージには、単純明快さと、目の前の現実に即応して発される即時性が必要なのに、この人の言動には基本的にそれがどちらも欠けている。そこが小泉前首相との決定的なちがいだ。小泉の政治的言動(パフォーマンス)には、いつも単純明快さと、即時性があった。それが大衆の心をつかんだ。だが、安倍首相にはそれがない。携帯アンケートでも最低の支持率最近の週刊朝日にのっていた、「アンケート調査でわかった、いまどき中高生(12〜18歳)『笑撃』の政治観」の安倍評が面白かった。これは携帯コンテンツサービス会社の「メディアシーク」がケータイで行ったアンケート調査の結果で、正規の社会調査というにはほど遠いいいかげんな調査だが、それだけにかえって面白い。安倍首相の評価は驚くほど低い。安倍首相を「好き」かどうか調べると、「好き」はわずか19%で、あとはみんな「NO」。それより驚きは、「誰に首相になってほしいか」の問いに、「安倍首相のままでよい」とする人はわずか5%しかいない。それに対して、圧倒的多数(32%)が、「小泉純一郎」の名前をあげている。安倍首相の5%は、「東国原英夫」の9%の半分程度で、「爆笑問題・太田光」「島田紳助」「田中真紀子」のいずれも4%とほとんど肩をならべる支持率である。要するに、安倍首相は、太田光、島田紳助程度の評価しか受けていないのである。中高生からも見放された安倍首相安倍首相を「好き」とする人の理由を見ると、「なんとなく」「優しそう」「いい人そう」「顔が可愛い」といった感覚的フィーリングがもっぱらで、人間としての中身の評価はゼロである。逆に「嫌い」な理由は、もっぱら「頼りない」「優柔不断」の2つだったというが、私もこれに賛成だ。不支持の理由として、具体的には、「内閣に不祥事が起きても弁護してばかり」「身内で政治をしている感じがする」「現実みがないことが多い。年金にしても調査期間に無理がある」「人柄だけで当選して美しい国とか抽象的な事ばっかり」「なにがしたいんだかわかんない。うつくしい国って何なんですか!?」といった答えが出てきた。なかには「明らかに経験不足」という声もあった。女子中高生にまで「経験不足」と指摘されるようでは、安倍首相の評価も地に落ちたというべきだろう。安倍首相の評価は「経験不足」に尽きるつい先日、ある新聞記者の訪問を受けて、2時間ばかりのインタビューを受けつつ、なぜ安倍首相はあれほどダメなのかを語り合った。結局、たどりついた結論がこの女子中高生の評価と同じだった。「経験不足」の一語につきるということである。どんな世界でもそうだが、一定の責任あるポジションにつくためには、どんな人でもその世界での一定の経験が必要である。ところが安倍首相には、閣僚としても、党役職者としても、ほとんど経験らしい経験がない。閣僚としては、官房長官を11カ月。党の主要な役職としては、幹事長を12カ月やっただけなのである。これだけの経験しか持たずに総理大臣になってしまった自民党政治家は、安倍首相以外誰もいない。安倍首相は本当に「経験不足」そのものなのである内閣全体が未熟者の集まり政治の世界では、いつでもみな激しいパワーストラグル(権力闘争)をくり広げており、その中で勝ち残ったものだけが政界実力者となる。政界実力者間で、さらに権力闘争がくり広げられ、最終的に勝ち残ったものが総理の座を獲得する、というのが、これまでは普通の流れだった。ところが、小泉政治の5年間の間に、派閥という実力者間の権力闘争の基盤をなしていた構造が完全に堀りくずされてしまった。だから、実力者同士が、派閥を率いての集団戦をするという形で権力闘争を行い、実力で政権をかちとるということがなくなってしまった。派閥を基盤とした実力者がみんな実力を失ってしまう中で、絶対権力者となった小泉が禅譲によって、政権を安倍に譲る形で安倍政権が誕生した。安倍は激しいパワーストラグルで鍛えられることが一度もなしに、政権を取ってしまった。つまり、あまりに未熟なまま、総理の座についてしまったわけである。もし、安倍首相が組閣にあたって、自分の経験を補ってくれるような人材を集めていればよかったのだろうが、現実にやったことは反対だった。周囲に集めたのは、ほとんど自分より未熟な若手の仲間連中ばかりだった。その結果、内閣全体が未熟者の集まりになってしまったわけである。安倍首相では日本は壊れてしまうこれからどうなるのか。いまのところは、長期的な見通しはつかない。参院選で安倍首相が敗けることは確実だが、そのあとは、安倍首相の敗け方いかんで、どんな展開もありうると思う。それこそ自民党も民主党も分裂して、大々的な政界再編が起こることだってありうると思う。いずれにしろ、この未熟な総理大臣には早く退場してもらいたい。最近の強行採決の連発を見ていると、こんな人を首相にしておいては、日本は壊れてしまうと思う。

Tuesday, June 19, 2007

『社員が燃える新日本的経営』

常盤 文克氏、写真左:西岡 郁夫氏
 西岡氏が指摘したのは、ミドル層の元気のなさだ。
「支援を心から求めているベンチャーの経営者を、大企業に紹介してプレゼンさせると、まあ、5分ぐらい経つあたりから、常務取締役、事業本部長といった幹部を除く、ほとんどの人の目が腐った魚のような、どろーんとした目つきになってきます。幹部は危機感をもっていても、横にいる、部長、課長、係長といったミドルの人たちは日頃から、上から落ちてくる仕事しかしていないんですね」
「要するに何か新しいことを、『よし、一丁やってやろうじゃないか』というような気持ちを持っていないから、ぴかっと光る目をしてない。ベンチャーの話を聞いていて、これは大した技術じゃないというんだったら、そう言ってほしいんですよね。ところが、そのベンチャーの技術が大したことかどうかを評価する前に、『わあ、またうるさいことを言ってきた、難しい仕事が増えるのは嫌だなー』という顔をしているんです。これをどう変えていったらいいんだろうか」
 一方の常盤氏は、数値化、デジタル化、個別の要素分解が過剰に進んだ経営のあり方に警鐘を鳴らした。 「お金と対極の、心の方に中心を置いた企業の経営があるんじゃないかと。つまり、働く人の、仕事のやり甲斐とか、仕事を達成したときの喜びとか、モノを作り出すときの喜び、あるいは作ったものを使っていただいて、ああ、いいものを作ってくれたなと感謝される、そんな喜びのようなものを中心に置いた経営を考えてみるべきではないか。夢を追いかけていると、こんなこともしたい、あんなこともしたい、よし、やるぞと、人は燃えますよね。いくら株価が上がっても社員は燃えませんよね」
「人の幸せ、働く喜びを大切にしながら、しかも一方でちゃんと利益も上がっているという会社が、実は中小企業にたくさん、もちろん大企業の中にもあります。この辺がこのテーマに掲げられている、新日本型経営というようなものを探っていくときの、1つの切り口になるのではないかなと、そんなふうに思っております」
 両氏は東海バネ工業、樹研工業など、高い技術による高付加価値、それを生み出す現場の熱気がうまくリンクした例を挙げたところで、西岡氏がこう切り出した--。
作ったものに誇りを持たせてくれる事業を
「そんな中で、他社が作れないバリューのある商品を適切な利益を戴いて商売する『新・日本的経営』のサンプルとして、先ほど、東海バネ工業の話をしましたけど。こういう商売の仕方はイタリアに結構多くあります。一つの例として、イタリアで有名なドズヴァルドの生ハムの話をします。この話の詳細を知りたい方は内田洋子、シルヴィオ・ピエール両氏の著書『イタリア人の働き方 (光文社新書) をお読み下さい。この本には他にもイタリアらしい働き方が紹介されています。いい本ですよ」
「さて、ドズヴァルドの生ハムはすごく美味しい生ハムで、イタリアの首相が国賓に『これこそイタリアの誇りだ』とふるまうのだそうです。食べたことがある人はいますか? …私もありません(笑)」
「首相が国賓にイタリアの誇りとしてふるまっているのに、年間、ドズヴァルドから売ってもらえる生ハムはたった4本だそうです。皆さんご存じの、ユナイテッド・カラーズ・オブ・ベネトンのベネトン氏も、翌年、翌々年と予約しているのに、毎年売ってもらえるのがたった2本だそうです」
「なぜかというと、ドズヴァルドは年間1500本しか作らないんです。それ以上作ると味が落ちるからです。 彼は邸宅の大広間で生ハムを熟成します。そこが一番空気がきれいな部屋だからです。その大広間に吊るせる生ハムの数が1500だから、評判が評判を読んでお客様のもう長い行列が出来ても年間の生産法数1500本を変えません。その結果、余計に値打ちが上がっていくのです」
薄利多売は経営者の愛情のなさから来る
「これが日本の家電メーカーだったらどうでしょう。1500本が完売したら、さあ3000本、1万本、工場の増築で増産に継ぐ増産ですよ。ついに5万本生産したら売れ行きがガタッと下がってしまう。さあ、それで売れ残ると『早く売れー!』と叩き売りに走る。自分のところの社員が愛情を込めて生み出したバリューを、自分の足で蹴飛ばして下げているわけですよ」 価格は、価値の表現にほかならない
 これを受け、常盤氏は、モノの価値を守ることは、働く社員のプライド、ひいては「燃える心」を守ることだと敷衍する。
「それを、さっきの西岡さんの話の続きで、5万本を作ったら売れ残った。じゃあ、しょうがない。もう半額にするかと言って叩き売ったらどうでしょう。自分たちが作った価値を自ら否定してしまいます。社員のプライドはむちゃくちゃですよね、やる気をなくしますよね。それはそうでしょう。価値をちゃんと評価してくれない行為を繰り返している仕組みを直さないといけませんね。『全部、そんな理屈通りはいかないよ』と言われるかも分かりませんが、価値というのはそういうものなんです」
個人の力、集団の力、結びつけるのは「きらめく旗」成果主義の安易な導入に警鐘を鳴らした後、いよいよ「働き方」に入っていく。常盤氏は「人は、やはり集団で働いたときに力が出る。成果主義によって、個人ひとり一人に焦点が絞られすぎているが、優れた個人よりも優れた集団で人は仕事をするのではないか。だからこそ、人は(優れた企業に)集まってくる」と主張する。
「1人よりも集団になることで、より大きな仕事ができる、より大きな創造性を発揮するということも大切にしないといけませんね。個は集団があって初めて機能するんだと思いますし、一方では集団というのは、個があって初めて強い集団になる。個と集団が相互作用する、というか、1つなんだということも考えないといけないんですね。仕事がうまくいったら、半分以上はやっぱり集団の力でしょう。もちろん、集団の中でひときわ光る個人は評価しなくてはいけませんが」
 これに対し西岡氏は、「日本の大会社は、集団の力をうまく機能させてない事例が非常に多いと思う」と指摘した。 「例えば、私、インテルへ入ってびっくりしたのは、インテルの会議ではプレゼンテータだけではなく出席者全員が、何らかの貢献しようとバンバン質問や意見を出します。会議の目的は元提案をブラッシュアップするためと明快に位置づけられているからですね。個と集団が相互作用を起こしています」
「ところが日本の会社の場合は、経営会議への提案がすべて根回しされている。変な質問をして発表者が立ち往生でもしたら、根回しを受けてOKした幹部が面目を失うことになってしまいます。ですから質問も出来ず、参加者はみんな黙っています。そして根回し通り“合議制”と称して決まっていくんですよ。会議の参加者は個々のバリューを発揮していませんよ。日本の会社は個と集団の相互作用を使っていないのです」
 常盤氏はそれを受けてこう語る。 「それは大いにありますね。だから、個、個と言いながら、集団の力に個の力を結び付けてないというか、統合してないという、この辺、大企業は下手ですね」
「中小企業は、社長さんがいて夢を語り、熱い思いを語り、きらめく旗を立てて、『こっちへ行こうよ』と言って進んでいく、それに付いて個が結集して強い集団にしていく。こんなような仕組みは学ばないといけませんね」
「私、大か小か分かりませんが、長いこと企業で勤めておりまして、今、中小企業について、研究…と言うとおこがましいんですが、勉強をして何十社かいろいろなところを訪ねますと、いろいろと教えられるところがあります。ああ、これからの大企業の行く道は、中小企業の中にあるなと。彼らの生き方、心意気、仕事に対する考え方、これをもう一度、大企業は学んで、新しい自分たちの生き方をしないといけないなということを今、すごく感じておりまして、何かの形で皆さんに伝えたいなと思っているんです。(個と集団が)融合するような仕組みが内蔵されているということですよ、言うなれば」  うなずいた西岡氏はさらに、大企業がなぜ融合にしくじりがちなのかについてこう述べる。
点の取り方と経営のやり方は真逆だ「大企業の特徴というか、大企業に共通のことがあるんですよ。それは大企業って社長はほとんど有名(と言われている)大学を出ていることです。僕、絶対にこれはおかしいと思いますよ」 「学校の試験でいい成績を取るにはノウハウがあります。しやすい問題からやるんですよ。難しいものから解いちゃったら、時間切れでたやすい問題でも回答できなくなります」
「一方、経営は手をつけやすい問題から取り組んでたら会社はつぶれますよ。まず、一番根本のところにメスを入れなきゃ。もっと言えば、試験は答えが1つです。知っています? 歴史で大化の改新はいつ起こったんですか。答えは645年で、それ以外は誰が何と言おうがxです」
「一方、ビジネスには正解がないんです。答が一つとは限りません。戦略が多少狂っても社員が一生懸命やったら成功することもあります。戦略が正しくても、個がばらばらで集団の力を発揮できなければ成功しません。つまり、試験の成績がよかった人=会社のトップ、となるのはおかしいのです。もちろん、彼らが経営したら絶対ダメ、というのも間違いです。が、試験の成績が悪い人が経営では部下の心を盛り上げて成功することは大いに有り得ますし、中小企業ではいっぱい事例があります。それなのに大会社のトップには優秀大学卒しかいないという事実は、大きな問題があることを示していますよ。
 トークはいよいよ結論に入る。ここからは、常盤氏・西岡氏の対談をそのままご紹介しよう。 西岡:ところであと12~13分なんですが、じゃあ具体的に、「新・日本的経営」はどうあるべきか? 常盤:ということですね。 西岡:要するに、(社員が燃えるように)経営を変えよう、と言ったって、だいたい当事者の経営者はこういうところに講演を聞きに来ないんですよね。 常盤:そうそう、「代わりに行ってこい」とかね。 西岡:ならば、この場にいる私たちに何ができるんだという話をちょっとしたいんですけれど。
常盤:やっぱり私は「すべては市場が決めるんだ、市場で勝てば善なのだ」と、こういういわゆる「市場主義」は今、行き過ぎているし、そこを直さないといけないと思います。お金中心のものの考え方、仕事の仕方というものに偏り過ぎている。もう一方の極に人というものがあり、人を中心に我々の仕事をもう一度考え直す、そんな時期ではないのかなと。  もっと分かりやすく言えば、今、あなたのやっている仕事、俺のやっている仕事は楽しいのかな、本当に意味があるのかな、みんなと働いている喜び、共感があるのかなと。このようなことを1人ずつ確認しないといけないんじゃないですか。ただ忙しい、忙しいと言って働いているという中からは、新しい日本の企業の姿は出てこないと思います。ちょっとここで一息入れて、自分の生き方を一度考え直してみる、それが新しい企業の姿を描くときの出発点になるのではないかなと思います。
 具体的なことを言えないというか、言わないのは、あとはみんなが考えることなんですよね。私がここで言っているようなことを、じゃあ、自分の場合は具体的にどうしたらいいんですか、と、聞いてくる。そんなことではいけませんね。別の言い方をすると、「考える」ということをみんなしなくなっちゃったんですよ。  もっと考えに考え抜くということが仕事の基本ですよね。それを忘れてしまって、「何かいいものが落ちてないか、何かいい情報はないか」というので、インターネットの上をサーフィンしているような生き方は問題ですね。もっと自分で考える、その中から新しい価値がわき出てくるんだ、「まず、自分で考えましょう」ということを言いたいですね。それを通して、「俺は今、意味のある仕事をしているか、楽しいか、俺の人生はこれでいいか」を考える。これを、今日の結論にしたいと思います。
自ら考え、自ら変わることでしか、会社は変えられない西岡:皆さんは、6人の部下のいる課長かもしれない、12名の部下がいる部長かもしれない、30人の部下のいる部長かもしれない。ならば、社長が変われなくても、まず自分の部から変えることですよ。部長が自ら変わってやるんですよ。部長が自分の部下を見る目、部下を使う使い方、部下と一緒に仕事をする仕方を変えるんですよ。それしか手はないでしょう、会社なんか部長には変えられませんよ。逆に言えば、自分自身から私たちは変われる、そこしかないと僕は思っているんですよね。その中で自分の領域を広げていく。係長だったらそうして自分の係を変えて、次に自分の課を変えていく。それからやりましょうよ。そう考えればいっぱいやれるところはあると思いますよ。みんながそうして変え始めたら、1つのうねりに……。 常盤:なりますね。 西岡:はい、うねりになるかもしれないです。 常盤:まさにおっしゃる通りで、そういう中で申し上げておきたいのは、「それじゃあ、どうすればうまくいきますか」「どんな実例がありますか」と言ってしまうこと。これは最低ですね。ベストプラクティスなんて言うけど、それは過去のある時期にある環境で成功した事例にすぎませんよね。過去とは違う現在の環境で、過去のやり方が合うはずがないですよ。考えないで「何かくださいよ」というのではなくて、考え抜くということを大切にしないといけません。
 10の会社、会社内の10のグループでもいい。そうしたら、10の生き方がないといけないんですよね。その生き方はそれぞれの会社の人たちがそれぞれ考え出していくんだと。つまりこれが個性ということですよね。個性の時代とか、多様化の時代なんて格好よく言いますけど、実際には同じような横並びの方向へ進みたがっている。ここに問題があると思うんですね。やはり個性というものを自分たちがつくり出す、その中で生き抜いていくという、そう心の置き場所を変えると、日本の企業はもっとよくなる、強くなると思うんです。これは一銭も、お金が掛かるわけじゃありません。投資ゼロでいい会社になれるんですよ。これは私の、仕事を通しての実感です。 西岡:この間、新幹線に乗っていて、その日はよく晴れていて富士山がきれいに見えたんです。そうしたら、車掌がアナウンスで、「皆さん、今日は富士山がすごく美しく見えます。もうすぐ富士山が一番きれいに見れるところに通りかかりますから、そのときにもう一度アナウンスします」って。そして鉄橋にさしかかる場所に行ったら、「皆さん、今、富士山がきれいです」と言ったんです。車内の人はみんな立ち上がって、外国の人も一緒になって「うわー、きれいだな」って、顔を見合わせました。これは、マニュアルに載っていませんよ。この車掌さんは自分の仕事に誇りを持っているのです。誇りのある人の仕事ってこんなものだなと思ったんですね。そういうことから変えていきませんか?

Monday, June 18, 2007

意の人となり行動を起こせ

意の人」となり行動を起こせ  知の人となり、情の人となった人は、次に行動しなければいけない。行動すると、また次の世界が見えてくる。  行動すると、だいたいまずいことが起きることが多い。「まずくなってもやろう」という意志の力が必要である。つまり「意の人」にならなければ行動できない。  しかし世の中には、「知」も「情」も「意」も大したことないのに、自分は一人前になったと思っている人が多い。何をもって一人前とするかを、もっと根本から反省すべきだ。  借り物でも世間一般では通用してしまう。それなりの年齢になり、それなりの収入を得ている。学校も卒業して、会社では名刺がある。それで一人前になった。確かになっているかもしれないけれど、まだまだ残りがあるということに気がついてほしい。  わたしは、本当はそんなことはどうでもいいと思っている。人はそれぞれ幸せに暮らしていけばいいのだから、「これでいい」と思っている人に、「あなたはまだまだ足りない」などと言う気はまったくない。  ただ「何かいいことを言ってくれ」というオファーに対して、いいと思うことを言うと、みんな分からない。みんなが理解するための言葉もない、本もない、先輩もあまりいない。だからわたしは、いいことをかき集めてきて説明する。すると「そうかな」と思ってもらえる。  例えば「漫画やアニメは大事です」とか、「東京大学なんかすぐに潰れます」とか、わたしにはわたしなりの理屈があって、そういったことを言う。そうするとみんな「まさか」と言う。みんなだいたい「まさか」で暮らしている。だが、歴史を見れば、「まさか」がまさかではなく実際に起こり得ることが分かる。
行動には「機能快」がある 「行動する」とは、行動の重要性を体得することだ。理屈ではダメで、行動すれば分かる。行動する人はなかなかいないけれど、少しはいる。  以前、渡辺昇一さんに「機能快」という言葉を教わった。もともとはドイツ語か何かだと思う。人間の体にはいろいろな機能が備わっていて、その機能を発揮すると快感があるということを指すそうだ。  例えば、筋肉がある人は筋肉を使ってみたい。男性は、10代のころは筋肉をどんどん鍛えたくなる。鍛えれば伸びるから、快感を感じる。ジャンプ力のある人は少しでも高く遠くへ飛んでみたい。飛べたら快感を感じる。  同じことが前頭葉にも言える。前頭葉にも機能快がある。それをくすぐるような勉強法が、ちまたに出回っている。勉強をしたら「よくできたね」と褒めてあげると、勉強したくなる。それから、内臓にも機能快がある。「ラーメンを10杯食べたら無料」とか。  さらに、集団行動の機能快もある。人がたくさん集まって、太鼓を叩いて踊るようなことがあるだろう。それが集団機能快である。みんなとリズムをそろえて運動をしていると、大変な快感を感じるのだ。何か電波が出ているとか、ホルモンが出ているとか、説明はいろいろある。  それを日本人は広げて考える。動物と共生するとか、植物とも共生するとか、地球の生き物がみんなつながっているとかいうように、広げて考えていく。
宗教は集団的機能快を利用する ところが、ヨーロッパ人は集団機能快を動植物まで広げては考えない。それは聖書が悪い。聖書には、神様は特別に人間を作ったと書いてある。人間と動物とは違うと線を引いている。ヨーロッパでは、その影響がずっと続いている。  例えばカトリック教会は、神様の教えを伝えるために、いろいろなテクニックを使っている。宗教はみんな同じようなことをしているのだが、集団に何かを伝えるために、集団催眠術を使う。常識を破るような大きな建物が建立されれば、人々は「もう今までのことは通用しない。ここへ来たら特別だ」と思う。つまり、スイッチの切り替えになる。  仏教であれば、そこでお経を唱える。お経は単調で、意味がまったく分からない。分からないからいいのである。分かったら、催眠術から目が覚めてしまう。意味の分からないお経を単調なリズムで長々と聞くと、何となくありがたいような気持ちになる。大きな仏像を置いておくとか、そういうのも同じ。それは、どの宗教でもやっている。カトリックもやっている。  ただ、不思議なことに、カトリックはリズムのある音楽を禁止した。人間の大脳はリズムに弱く、聞くとすぐに酔ってしまう。逆にいえば、リズムで酔わせればすぐ信者になる。兵隊が出撃する前に太鼓を叩くのも同じような理由からだ。  実はそれは、ゲルマン民族がやっていた。その真似をしたのではありがたみがないから、高級な宗教であることを伝えるために、ローマカトリックはリズム音楽を禁止した。
日本人は人間を区切らない カトリックでは、朝の9時に礼拝が始まるとき、一斉に東の方を向いて、神をたたえる歌を歌った。すると神様がお喜びになると、勝手に思ったのだろう。  その歌声は、神様が一番お喜びになる声がいい。これは少女の美しい声である。だから女性の合唱団を作ればいいと思うのだが、それはしない。  これもまた聖書が邪魔になるのだが、聖書では女性の地位がすごく低い。神様のことが見えるのは男だ。キリストは男であるし、聖書では女性は神様と付き合える資格がないとされている。「神様をたたえる歌を歌うのは男であって、女は賛美歌を歌ってはいけない」というのが初期のカトリック教会である。  そこで、少女の歌声に近いボーイソプラノが選ばれた。少年たちの合唱団が、賛美歌を歌うのだ。それがやがて職業になっていく。職業になると、リストラされてしまうと困るから、去勢してでも高い声を続けようとする少年が出てくる。  何とも不自然な話である。集団行動の機能快で人間を片っ端から区切っていく考え方だと、そんなふうになってしまう。  日本人は区切らない。みんなあいまいに、総合的に考えるから、そうした面倒を起こさずに暮らしていくことができる。そして「一神教はダメです、多神教の方がいいです」とか、「あいまいな方がいいです」とか、日本的な考え方に至る。
「アクション」はアイデンティティにつながる 知の人になり、情の人になり、意の人になる。するとやがて、自分の世界が出来てしまう。それは閉鎖的にこもった世界ではなくて、行動を超えた自分の世界である。そして自然に仲間も出来ている。社会との一体感も自然に出来ている。つまり「行の人」、行いの人になる。  自分の世界を持つ。自分個人の世界ではなくて、社会とつながっている世界を持つこと。そこには、行うことで出来た友達がいる。それは「開発活動」ということもできる。  開発とは、今はまだないものを作り出すことである。ないものを作り出すことは、本当に面白い。それをアクションという。  アクトとは、自分から積極的に働きかけることをいう。ある意味では人を縛ることでもある。だから法律のことをアクトという。  アクションは通常、社会の支配階級が行う。ワークは下の人たちがする。アクションの面白さを知る人間になる、それはすなわち自己実現である。なぜならアクトとは、自分が「これがいい」とみんなに言うことだからだ。それは自然にアイデンティティになっていく。
歩き回って世の中を知る必要がある 自分の世界を持って、かつ社会に対して働きかけるというのは、ヨーロッパ的に言えば、神様の仕事を人間がすることである。しかし東洋的に言えば、人間が人間のことをしているだけである。  特に日本では、神様は人間の仕事をして田植えをする。天照大神は機織りをする。神様は、嫉妬もすれば人殺しもする。ギリシャ神話もそうで、神と人間をそんなに分けない。そういう世界に入っていけるだろう。  そうすると、相互扶助を実感できるようになる。誰かのために何かをすれば、いつかは自分にも回ってくる。自分に回ってこなくても、自分の子どもに回ってくるかもしれない。回ってこなくても、まあいいではないか。これは仏教の教えでもある。そういう幸不幸を知った人間になれる。  そのためには、やはり世の中を知らなければいけない。歩き回らなければ、世の中を知ることはできない。いろいろな人と話をし、自分も経験しなくてはいけない。  何かを知る。前は知らなかった。知ってみれば、目からうろこが落ちたという喜びがある。まずはその喜びから始めて、だんだんとその先へ向かっていってほしい  知の人となり、情の人となった人は、次に行動しなければいけない。行動すると、また次の世界が見えてくる。  行動すると、だいたいまずいことが起きることが多い。「まずくなってもやろう」という意志の力が必要である。つまり「意の人」にならなければ行動できない。  しかし世の中には、「知」も「情」も「意」も大したことないのに、自分は一人前になったと思っている人が多い。何をもって一人前とするかを、もっと根本から反省すべきだ。  借り物でも世間一般では通用してしまう。それなりの年齢になり、それなりの収入を得ている。学校も卒業して、会社では名刺がある。それで一人前になった。確かになっているかもしれないけれど、まだまだ残りがあるということに気がついてほしい。  わたしは、本当はそんなことはどうでもいいと思っている。人はそれぞれ幸せに暮らしていけばいいのだから、「これでいい」と思っている人に、「あなたはまだまだ足りない」などと言う気はまったくない。  ただ「何かいいことを言ってくれ」というオファーに対して、いいと思うことを言うと、みんな分からない。みんなが理解するための言葉もない、本もない、先輩もあまりいない。だからわたしは、いいことをかき集めてきて説明する。すると「そうかな」と思ってもらえる。  例えば「漫画やアニメは大事です」とか、「東京大学なんかすぐに潰れます」とか、わたしにはわたしなりの理屈があって、そういったことを言う。そうするとみんな「まさか」と言う。みんなだいたい「まさか」で暮らしている。だが、歴史を見れば、「まさか」がまさかではなく実際に起こり得ることが分かる。
行動には「機能快」がある 「行動する」とは、行動の重要性を体得することだ。理屈ではダメで、行動すれば分かる。行動する人はなかなかいないけれど、少しはいる。  以前、渡辺昇一さんに「機能快」という言葉を教わった。もともとはドイツ語か何かだと思う。人間の体にはいろいろな機能が備わっていて、その機能を発揮すると快感があるということを指すそうだ。  例えば、筋肉がある人は筋肉を使ってみたい。男性は、10代のころは筋肉をどんどん鍛えたくなる。鍛えれば伸びるから、快感を感じる。ジャンプ力のある人は少しでも高く遠くへ飛んでみたい。飛べたら快感を感じる。  同じことが前頭葉にも言える。前頭葉にも機能快がある。それをくすぐるような勉強法が、ちまたに出回っている。勉強をしたら「よくできたね」と褒めてあげると、勉強したくなる。それから、内臓にも機能快がある。「ラーメンを10杯食べたら無料」とか。  さらに、集団行動の機能快もある。人がたくさん集まって、太鼓を叩いて踊るようなことがあるだろう。それが集団機能快である。みんなとリズムをそろえて運動をしていると、大変な快感を感じるのだ。何か電波が出ているとか、ホルモンが出ているとか、説明はいろいろある。  それを日本人は広げて考える。動物と共生するとか、植物とも共生するとか、地球の生き物がみんなつながっているとかいうように、広げて考えていく。
宗教は集団的機能快を利用する ところが、ヨーロッパ人は集団機能快を動植物まで広げては考えない。それは聖書が悪い。聖書には、神様は特別に人間を作ったと書いてある。人間と動物とは違うと線を引いている。ヨーロッパでは、その影響がずっと続いている。  例えばカトリック教会は、神様の教えを伝えるために、いろいろなテクニックを使っている。宗教はみんな同じようなことをしているのだが、集団に何かを伝えるために、集団催眠術を使う。常識を破るような大きな建物が建立されれば、人々は「もう今までのことは通用しない。ここへ来たら特別だ」と思う。つまり、スイッチの切り替えになる。  仏教であれば、そこでお経を唱える。お経は単調で、意味がまったく分からない。分からないからいいのである。分かったら、催眠術から目が覚めてしまう。意味の分からないお経を単調なリズムで長々と聞くと、何となくありがたいような気持ちになる。大きな仏像を置いておくとか、そういうのも同じ。それは、どの宗教でもやっている。カトリックもやっている。  ただ、不思議なことに、カトリックはリズムのある音楽を禁止した。人間の大脳はリズムに弱く、聞くとすぐに酔ってしまう。逆にいえば、リズムで酔わせればすぐ信者になる。兵隊が出撃する前に太鼓を叩くのも同じような理由からだ。  実はそれは、ゲルマン民族がやっていた。その真似をしたのではありがたみがないから、高級な宗教であることを伝えるために、ローマカトリックはリズム音楽を禁止した。
日本人は人間を区切らない カトリックでは、朝の9時に礼拝が始まるとき、一斉に東の方を向いて、神をたたえる歌を歌った。すると神様がお喜びになると、勝手に思ったのだろう。  その歌声は、神様が一番お喜びになる声がいい。これは少女の美しい声である。だから女性の合唱団を作ればいいと思うのだが、それはしない。  これもまた聖書が邪魔になるのだが、聖書では女性の地位がすごく低い。神様のことが見えるのは男だ。キリストは男であるし、聖書では女性は神様と付き合える資格がないとされている。「神様をたたえる歌を歌うのは男であって、女は賛美歌を歌ってはいけない」というのが初期のカトリック教会である。  そこで、少女の歌声に近いボーイソプラノが選ばれた。少年たちの合唱団が、賛美歌を歌うのだ。それがやがて職業になっていく。職業になると、リストラされてしまうと困るから、去勢してでも高い声を続けようとする少年が出てくる。  何とも不自然な話である。集団行動の機能快で人間を片っ端から区切っていく考え方だと、そんなふうになってしまう。  日本人は区切らない。みんなあいまいに、総合的に考えるから、そうした面倒を起こさずに暮らしていくことができる。そして「一神教はダメです、多神教の方がいいです」とか、「あいまいな方がいいです」とか、日本的な考え方に至る。
「アクション」はアイデンティティにつながる 知の人になり、情の人になり、意の人になる。するとやがて、自分の世界が出来てしまう。それは閉鎖的にこもった世界ではなくて、行動を超えた自分の世界である。そして自然に仲間も出来ている。社会との一体感も自然に出来ている。つまり「行の人」、行いの人になる。  自分の世界を持つ。自分個人の世界ではなくて、社会とつながっている世界を持つこと。そこには、行うことで出来た友達がいる。それは「開発活動」ということもできる。  開発とは、今はまだないものを作り出すことである。ないものを作り出すことは、本当に面白い。それをアクションという。  アクトとは、自分から積極的に働きかけることをいう。ある意味では人を縛ることでもある。だから法律のことをアクトという。  アクションは通常、社会の支配階級が行う。ワークは下の人たちがする。アクションの面白さを知る人間になる、それはすなわち自己実現である。なぜならアクトとは、自分が「これがいい」とみんなに言うことだからだ。それは自然にアイデンティティになっていく。
歩き回って世の中を知る必要がある 自分の世界を持って、かつ社会に対して働きかけるというのは、ヨーロッパ的に言えば、神様の仕事を人間がすることである。しかし東洋的に言えば、人間が人間のことをしているだけである。  特に日本では、神様は人間の仕事をして田植えをする。天照大神は機織りをする。神様は、嫉妬もすれば人殺しもする。ギリシャ神話もそうで、神と人間をそんなに分けない。そういう世界に入っていけるだろう。  そうすると、相互扶助を実感できるようになる。誰かのために何かをすれば、いつかは自分にも回ってくる。自分に回ってこなくても、自分の子どもに回ってくるかもしれない。回ってこなくても、まあいいではないか。これは仏教の教えでもある。そういう幸不幸を知った人間になれる。  そのためには、やはり世の中を知らなければいけない。歩き回らなければ、世の中を知ることはできない。いろいろな人と話をし、自分も経験しなくてはいけない。  何かを知る。前は知らなかった。知ってみれば、目からうろこが落ちたという喜びがある。まずはその喜びから始めて、だんだんとその先へ向かっていってほしい

Thursday, June 14, 2007

方法論やシステムに込められた「魂」が失われる

IT業界で,特定の分野に秀でた方々は,しばしば「魂を入れる」とか「魂を込める」という表現を使う。なにかしら深い洞察により得た工夫を,開発方法論や業務モデル,情報システムなどに織り込み,それらの利用者にきちんと作用することを指して「魂を入れる」と表現している。
 このような話をしてくれる方々への取材は,いつも楽しい。どんな状況でどんな失敗を経験し,何を学んだのか。それを改善するために,どんな工夫を凝らして開発方法論やシステム設計に「魂」を込めたのか。現場から生まれた数々の知見を,実に生き生きと,熱っぽく語ってくれるからだ。
 しかし,せっかく込めた「魂」が失われてしまうことがあるという。ここでは開発方法論に込められた魂=工夫が失われた例を紹介したい。
 ある大手ITベンダーの品質管理担当者が,こぼしていた。「過去に繰り返された多くの失敗を糧にして,いろいろな工夫を凝らし,開発方法論を改善してきた。それなのに現場では,肝となるアクティビティを省いてしまうケースが少なくない」というのだ。現場が忙しくてつい省いてしまったという場合もあるが,特に問題視していたのは,プロジェクトが始まった時点でも「魂」の一部が失われる可能性である。
 開発方法論(開発プロセスや管理プロセス,各種標準などの総称)は一般に,どんなタイプのプロジェクトでも応用が利くように,かなり幅広いタスクやアクティビティを網羅している。開発の現場ですべてのタスクやアクティビティ,ドキュメントの作成を実施する必要はないため,プロジェクト・マネジャが必要なものだけを抜き出し,開発方法論をカスタマイズする必要がある。まずこの過程で問題が発生しやすいという。
 「プロジェクト・マネジャの中には,開発方法論を『手順書』か『ドキュメント・テンプレート集』くらいにしか思っていない人がいる。プロジェクト・マネジャとしての経験が足りないからなのだろうが,方法論のどこが肝なのか,なぜそういうアクティビティが必要なのかを分かっていない。だから,自分のプロジェクトで省いてもいいアクティビティ/ドキュメントと,そうでないアクティビティ/ドキュメントの区別がついていない」と前述の品質管理担当者が話す。
 省かれやすいものは,例えば「キックオフ・ミーティングでユーザー企業とゴールを共有する」というようなコミュニケーション/プロジェクト運営に関することをはじめ,リスク・マネジメント,レビュー・プロセスなど,「もの作り」に直結していない作業全般に及ぶ。
 あるいは,成功した類似プロジェクトの開発方法論を,ほとんどそのまま自プロジェクトに適用することもあるだろう。当然ながら,それが自プロジェクトで常にフィットするとは限らない。自プロジェクトに必要でありながら,既に省かれているアクティビティやドキュメントがあるかもしれない。
 運がよければ,省かれた部分をプロジェクト・マネジャの力量でカバーできるかもしれない。だが,それは個人の力量に依存した前近代的な開発スタイルである。過去の経験から得たノウハウやベストプラクティスをうまく再利用できていないという点で,方法論に込められた魂の一部は失われていると言えるだろう。PMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)を持つ組織の中には,こうした問題へのフォローを始めているところもあるという。
 「開発方法論は,型にはまっていて役に立たない」と感じているプロジェクト・マネジャもいらっしゃるだろう。もしかしたら,その方法論が本当に役立たずなのかもしれない。あるいは,そうではなく,方法論に関する教育が手薄だったために利点を知らずにいるだけなのかもしれない。いずれにしても,方法論などを「試して,改善していく」というサイクルが失われていることを,魂を込めてきた方々は心配している。