◆漱石が95年前に指摘した「専門家の弊害」と解決法
自分の商売が次第に専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍ないし四倍とだんだん速力を早めて遂付かなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事が皆目分らなくなってしまうのであります」
これは、夏目漱石の発言である。漱石は明治44年(1911年)の8月、明石・和歌山・堺・大阪で講演した。一連の講演内容は、『私の個人主義』(講談社学術文庫)に納められている。冒頭部分は『道楽と職業』と題された、明石における講演からの引用である。95年前の発言にもかかわらず、その通りとしか言いようがない。
ITプロフェッショナルはITの専門家である。ただし「IT一般」の専門家というものはおらず、セキュリティの維持、オブジェクト指向による開発、Linuxまわりのサポートといったように、各領域の専門家が存在している。ITプロフェッショナルは担当領域の仕事をし、その領域の勉強を続けなければならない。
漱石の指摘をITに当てはめてみると、ITの専門家は金融の専門家や医療の専門家のことが分からない、となる。金融や医療を支える情報システムの開発が難しいのは無理もないことと言える。さらにITの専門家同士であっても、自分の担当領域ではない「お隣りの事や一軒おいたお隣りの事」は案外分からなくなっている。
専門領域の細分化は進む一方である。漱石は同じ講演でこう語っている。
「現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実銘々孤立して山の中に立て籠もっていると一般で、隣り合せに居を卜(ぼく)していながら心は天涯に懸け離れて暮らしているとでも評するより外に仕方がない有様に陥って来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起こりようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。(中略)根ッから面白くないでしょう」
社会生活に関する指摘だが、IT関連のプロジェクトに絞ってみても、この言葉は的を射ている。「表面上」共同プロジェクトを「営んでいる」が、ユーザー企業やIT企業から集められたプロジェクトメンバーは「銘々孤立して山の中に立て籠もって」おり、「心は天涯に懸け離れて暮らしている」。「相互を了解する知識も同情も起こりようがなく」、プロジェクトの諸活動は「バラバラで何の連鎖もない」。
これでは情報システムの開発プロジェクトは「根ッから面白くない」。面白くないから失敗する可能性が高まる。失敗したとしても、「相互を了解する同情も起こりようがなく」、「ユーザー企業が要件をきちんと定義しないからだ」「請け負ったIT企業に業務知識が不足していた」といった言い合いになってしまいかねない。
専門化・専門家の弊害はITに限ったことではない。社会生態学者のピーター・ドラッカーは『プロフェッショナルの条件』(ダイヤモンド社)の中で、「専門知識はそれだけでは断片にすぎない。不毛である。専門家の産出物は、ほかの専門家の産出物と統合されて初めて成果となる」、「今日の若い高学歴者のもっとも困った点は、自らの専門分野の知識で満足し、他の分野を軽視する傾向があることである」と痛烈なことを書いている。
無論、専門化は不可避であり、専門家の専門知識は極めて重要である。その知識を発揮するためにこそ、他の専門領域を知る必要がある。ではどうすればよいか。漱石の講演からもう一カ所引用する。
「個々介立の弊が相互の知識の欠乏と同情の稀薄から起ったとすれば、我々は自分の家業商売に逐われて日もまた足らぬ時間しか有たない身分であるにもかかわらず、その乏しい余裕を割いて一般の人を広く了解しまたこれに同情し得る程度に互の温味を醸す法を講じなければならない。それにはこういう公会堂のようなものを作って時々講演者などを聘して知識上の啓発をはかるのも便法であります」
ITや金融や医療の専門家は、自分の専門以外の「知識上の啓発をはかる」必要がある。この指摘をまたITの領域に当てはめてみる。プロジェクトの失敗がメンバー「相互の知識の欠乏と同情の稀薄から起ったとすれば」、ITの全体像を「広く了解し」なければならない。
これは、夏目漱石の発言である。漱石は明治44年(1911年)の8月、明石・和歌山・堺・大阪で講演した。一連の講演内容は、『私の個人主義』(講談社学術文庫)に納められている。冒頭部分は『道楽と職業』と題された、明石における講演からの引用である。95年前の発言にもかかわらず、その通りとしか言いようがない。
ITプロフェッショナルはITの専門家である。ただし「IT一般」の専門家というものはおらず、セキュリティの維持、オブジェクト指向による開発、Linuxまわりのサポートといったように、各領域の専門家が存在している。ITプロフェッショナルは担当領域の仕事をし、その領域の勉強を続けなければならない。
漱石の指摘をITに当てはめてみると、ITの専門家は金融の専門家や医療の専門家のことが分からない、となる。金融や医療を支える情報システムの開発が難しいのは無理もないことと言える。さらにITの専門家同士であっても、自分の担当領域ではない「お隣りの事や一軒おいたお隣りの事」は案外分からなくなっている。
専門領域の細分化は進む一方である。漱石は同じ講演でこう語っている。
「現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実銘々孤立して山の中に立て籠もっていると一般で、隣り合せに居を卜(ぼく)していながら心は天涯に懸け離れて暮らしているとでも評するより外に仕方がない有様に陥って来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起こりようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。(中略)根ッから面白くないでしょう」
社会生活に関する指摘だが、IT関連のプロジェクトに絞ってみても、この言葉は的を射ている。「表面上」共同プロジェクトを「営んでいる」が、ユーザー企業やIT企業から集められたプロジェクトメンバーは「銘々孤立して山の中に立て籠もって」おり、「心は天涯に懸け離れて暮らしている」。「相互を了解する知識も同情も起こりようがなく」、プロジェクトの諸活動は「バラバラで何の連鎖もない」。
これでは情報システムの開発プロジェクトは「根ッから面白くない」。面白くないから失敗する可能性が高まる。失敗したとしても、「相互を了解する同情も起こりようがなく」、「ユーザー企業が要件をきちんと定義しないからだ」「請け負ったIT企業に業務知識が不足していた」といった言い合いになってしまいかねない。
専門化・専門家の弊害はITに限ったことではない。社会生態学者のピーター・ドラッカーは『プロフェッショナルの条件』(ダイヤモンド社)の中で、「専門知識はそれだけでは断片にすぎない。不毛である。専門家の産出物は、ほかの専門家の産出物と統合されて初めて成果となる」、「今日の若い高学歴者のもっとも困った点は、自らの専門分野の知識で満足し、他の分野を軽視する傾向があることである」と痛烈なことを書いている。
無論、専門化は不可避であり、専門家の専門知識は極めて重要である。その知識を発揮するためにこそ、他の専門領域を知る必要がある。ではどうすればよいか。漱石の講演からもう一カ所引用する。
「個々介立の弊が相互の知識の欠乏と同情の稀薄から起ったとすれば、我々は自分の家業商売に逐われて日もまた足らぬ時間しか有たない身分であるにもかかわらず、その乏しい余裕を割いて一般の人を広く了解しまたこれに同情し得る程度に互の温味を醸す法を講じなければならない。それにはこういう公会堂のようなものを作って時々講演者などを聘して知識上の啓発をはかるのも便法であります」
ITや金融や医療の専門家は、自分の専門以外の「知識上の啓発をはかる」必要がある。この指摘をまたITの領域に当てはめてみる。プロジェクトの失敗がメンバー「相互の知識の欠乏と同情の稀薄から起ったとすれば」、ITの全体像を「広く了解し」なければならない。
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