Friday, March 10, 2006

日本は「質の経済」、アメリカは「量の経済」

相手国の「程度」に合わせた外交を 日本人は「クオリティが高いか低いか」に敏感だ。それに比べると、外国人はクオリティがほとんどわからないのではないかと感じる。彼らは日本人とつき合って、だんだんとわかるようになってくるのだ。それで、日本の商品を買うようになったり、日本風に物事を考えたりする外国人が増えてきた。アメリカ人などもそうだ。一言でいうと、日本は「質の経済」でアメリカは「量の経済」である。あるいは外交なら、日本は「モラルのある礼儀正しい外交」で、アメリカは「力一本槍の外交」。これは日本人から見れば野蛮だが、アメリカ人はそうは思っていない。  日本人の品性はいろいろな面で非常に上品で、世界の常識とはまるで違うくらいに高級だ。だから、昨今の憲法改正論で僕が「一番ここを変えてもらいたい」と思うのは憲法前文だ。前文には「世界の国はみんなよい国だ、日本さえ悪い気を起こさなければ世界は平和である、だから日本は何もかも他の国にお任せする」と書いてあるのだが、それは現実とは違うことに国民が気づいている。  そこで僕は、前文を「世界には程度の高い国と低い国といろいろあって、日本はそれに応じておつき合いいたします」と改正してもらいたいと思っている。悪い国とは悪くつき合う、立派な国とは立派につき合う。そういう憲法前文にしておいたほうが現実に合っていて、しかもそういう「程度の調節」ができる国は日本しかないのではないか。相手がどんな程度の高い国でも、日本はきちんとつき合うことができる。ただ、程度の低い国とのつき合いが最近はできていないことが問題で、それをこれから大いに開発すべきだと僕は思っている。  しかし、日本の指導者は「程度の低い国とはつき合うな」という話をしない。これに国民のほうが、じれったくなっている。国民の意識に変化が見られるのだ。「悪い国には悪いといったらどうだ。上品なことばかりいっていても、らちが明かない」と国民は思い始めている。ただ、国民はメッセージとしては曖昧な「らちが明かない」というようないい方しかできない。新聞やテレビはそうした声を取り上げない。それでも、現実を見抜いている「庶民の声」は、どんどん高まっている。

アメリカのモジュール化はクオリティが低い

 「質の経済」の話を日本人に向かってするのは難しい。しかしアメリカ人にはしやすい。理由は2つある。第1に、日本人に向かって「日本人はハイクオリティをたいへん好む」といっても、「そうですよ、だから実行しています」と応じられてしまうだけだから、わざわざいう必要がないのだ。

 第2は、その日本人のなかでも、学歴の高い人はクオリティの話ではなくて、もっとデータに基づいた話を聞きたいというからだ。そういう人は、クオリティの話は非科学的で、非学問的であると思いこんでいる。もっとスペックやモジュールになるような、数値になるような話を聞きたいと思っている人が増えている。そういう人に「クオリティ」の話をしても、聞き損だと思われてしまう。もっと数字や統計を挙げて、欧米の先例や理論をいってくれというのが彼らの要望だ。

 でも僕は、「そんな数字になるようなものは程度が低い」と思っている。アメリカ人は、スペック化して、モジュール化して、これで合理化した、生産性が上がった、ハイクオリティの生活をしていると思っている。そんなことしかしていない。しかしそれは、我々日本人からすれば野蛮な生活に見える。社会秩序についても、普通の日本人は「そんなことでいいんですか」とアメリカに対して思っている。

 しかし、アメリカに留学した人はそう思っていないらしい。あるエコノミストが、「日本は労働マーケットがモジュール化していないからダメだ、遅れている」という論説を新聞で書いているのを見たことがある。モジュール化とは、懐かしい言葉が出てきたものだと僕は思った。

 僕が「モジュール化」という言葉を知ったのは、プレハブ住宅が日本に登場した頃のことだ。当時は「住宅をモジュール化すれば、安く、手っ取り早く家が建ちます」とアメリカの業者が推進していたのだ。「ディベロッパー」という商売ができて、アメリカ郊外に建売住宅をたくさんつくって売りまくった。それを見た日本の通産省(現・経済産業省)が「日本でもやるべきだ」と持ち込もうとしていた。

 「モジュール化」は「ユニット化」ともいわれる。アメリカでは、例えば風呂場をスーパーで売っていて、それを買ってきてはめこめば家に風呂場ができてしまう。あるいはシステムキッチンなどもそうだ。だからアメリカの建売住宅というのは、そうしたモジュールを用意して組み立てればいいだけで、「3日でできます」というのが自慢だった。

 通産省が「これをやれ」というと、みんながアメリカを見たがった。日本の会社は当時はお金が余っていたから、みんな外国へ行きたいわけで、当時僕が呼びかけをして団長を務めた「住宅産業調査団」に10社以上が参加した。アメリカ中をひと回りして、建売住宅やニュータウンを視察した。

 そのときに日本の業者がしみじみといったのは、「アメリカの住宅は野蛮だ」ということだった。「仕上げなんてないほどの手抜きだ。3割安の住宅をつくれと通産省はいうが、これでいいのだったら、我々はいつでも3割安でつくってみせる」と彼らはいった。「どこがそうなのか」と聞くと、一例を挙げると、例えばトイレのドア。トイレにはにおいがこもるから、空気が通らなければいけない。だから日本ではドアのなかに鎧戸をつける。上部と下部にわざわざ鎧戸をつけて空気を通すのが日本の建売住宅なのだが、アメリカのドアは、上と下が切ってある。たしかにそれでも空気は通るが、そんなことをしたら日本の客は怒ってしまう。「なるほどね」と思ったものだ。

クリエイティブな人材はモジュール化できない

 モジュール化という言葉はつまり「スペック化」という意味だ。この人は三級溶接士だとか、一級建築士だとか、人間の扱いにもそれがある。それぞれの集団の有力者が、それぞれ自分のチームを引き連れているから、これをそのまま雇えば、部品の取り替えみたいに会社のなかにスポッとはまるわけだ。

 官僚の論調は、「アメリカはそうなっていて、日本はそうなっていない。だから日本が遅れている」というものだ。これは、自分の頭で考えているとはいいがたい。ハーバード大学ではそう教わったのかもしれないが、日本の会社では、モジュール化していないほうが黒字が出ている。モジュール化した会社はかえって赤字に転落している。こうした日本の現実を見て、反省してもらいたい。ハーバードかどこかで聞いてきたからとすぐそのまま鵜呑みにしてしまうところが悲しい。

 官庁として民間を主導するなら、モジュール化、特に人間の扱いに関してのモジュール化はどんな場合に有効かを検証してから、判断してもらいたい。モジュール化できるような労働は、決まりきった労働だ。ごくごく事務的な仕事や、すでに専門化が終わっているような仕事だ。そんな仕事しかない会社ならモジュール化でもいいかもしれないが、「うちの会社はもっと未来に向かって新しい仕事をする」という会社なら、本社にいる人はクリエイティブでなければいけない。その多くは、名もなく、資格も評判もなく、情熱だけの人だ。そうしたモジュール化不能の個人を一本釣りするのが、成長する会社をめぐる労働市場というものだ。

 今、世界で最もクリエイティビティのあるマーケットは日本だ。だから、日本で日本人が気に入ってくれるものをつくって、気に入ってくれるようなやり方で販売しなければいけない。それを考えられるのは、やはり日本人が適役なのだ。日本人のなかでも一部の人ではあるが、それは「他国のクオリティの低さに汚染されていない人」だ。アメリカはほとんど参考にならない。

 日本の産業は、すでにそういう段階に入っている。そうした成功例がたくさん出てきている。それにもかかわらず、数字になっているような、統計的裏づけのあるような話を求める人が多い。「数字を求めるなら、クオリティの話はできませんよ」と僕はいいたい。

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