Thursday, February 23, 2006

行革の推進力はなぜ強くなる一方なのか

■うま味がなくなって優秀な官僚ほど逃げていく
大蔵省(現・財務省)では、人事課長のことを「秘書課長」という。昔は彼らをどんなにこき使っても、みんな死にものぐるいで朝まで働いてくれた。ところがこの頃は、天下りのうま味もないし、民間の接待もない。だからもう嫌になって帰ってしまう。これは問題だということになっている。
でも彼らが省内の職員に、例えば「君、外資系からお誘いがあるけど、このあたりでひとつ、辞めて行ってみるかね」というと、もっと偉くなろうと思っている人は断るわけだ。「秘書課長」というのも大事な仕事。20人採用しても最後は1人だけいればいいのだから、途中で19人を辞めさせなければいけないのだから。
大蔵省としてはあまり期待していない人に、「君、外資系の誘いがあったけど行くか」というと、だいたい1回目はみんな断るらしい。2回目に「どうかね」とやって、かつてはそれが一巡して誰も行く人がいないという状態だった。つまりその頃、大蔵省にはまだ魅力があった。仕方がないからその次に、多少有望だけど下から数えて何番目かの人に「君、このあたりで……」といった。それでもみんな粘った。
それで結局、本来ならもうちょっと上まで引っ張り上げたいと思う人に「どうかね」と言ったら「はい、行きます」というわけだ。そのレベルの人は賢いから、ちゃんと将来が見えているのだ。つまり、「こんなところに残ってもしようがない」と、外資系に行ってしまう。結局、レベルが上の人ほど、どんどんいなくなってしまう。だから大蔵省としては、中途半端なレベルの人が残って、本当に有望な人がバンバン出ていってしまう。
つまり、役所には「うま味」がなくなったわけだ。その「うま味」をなくしているのは、改革なのだ。それでもまだ、抵抗する人はしている。今がんばるべきはこのことなのだ。小泉首相は「今からがんばる」といっている。実際、国会はもう自民党が抑えたから、法案さえ出せば全部通ってしまう。頭数でいえば、全部通るわけだ。
そうなると、実は法案をつくる人がいないということが問題になる。役所はなるべく新しい法案をつくりたくない。小泉首相は9月に辞めるといっているのだから、9月まで改革を引き延ばせばいいんだと役人は思っている。それでも、役所にも新しい改革案をつくる良心的な人もいる。しかし体制としては、改革はなるべくやりたくない。しかも現実は、小泉さんが辞めた後を見計らって、「おれはやっぱり役所の世話になって、利権を回してもらって当選しなければいけないんだ」というような政治家がまだポチポチいるわけだ。
国民はもっと適切にこの問題に対応していかないといけない。つまり、闇雲に役人をやっつけて意地悪ばかりしていてもダメで、立派な役人はほめなければいけない。結果が出たときにはほめるべきはほめて、ダメな部分はダメと、国民がいわなければいけないのだ。
最初の行革は「赤字の力」が原動力で始まった 土光敏夫さん(元経団連会長、元臨時行政改革推進審議会会長)以来の行政改革22年の歩みを見ると、最初は赤字の力が原動力となっていた。「赤字だからもうこれはやめるんだ」と言えば、角が立たないわけだ。「おまえのやっていることはバカだ、愚かだ、責任問題になるからからやめろ」といえば、相手は怒る。だから、最初は「よいことをしているんだけど、赤字だから、不景気だから」と説得して改革が進んだ。  その次に来たのは「理非曲直をただせ」だ。「それは汚いぞ」という“道徳の風”がだいぶ吹いたわけだ。先日、ホリエモン(堀江貴文元ライブドア社長)が捕まったが、法律的にあの事件をちゃんと証明するのは苦労するだろうけれど、それでも検察庁は、ああいうことをすれば人気が出る。あれも理非曲直の物差しが厳しくなってきたことの表れで、ホリエモンは「おれは法律違反はしていない」と言うが、法律というのは結構動くものなのだ。今は法律がどんどん厳しく動いているということだ。  行革推進法は、間もなく通るだろう。この法律は、要するに“心掛け”が書いてあるのだ。「この方向でこういうふうにやるんだよ、みんなわかったか」と、そんな“精神”が書いてあるわけだ。だから本来、それは法律じゃない。法律というのはもっときちんとしたことを書くものであって、趣旨などは説明書のようなもの、つまり憲法前文みたいな場所に書くというのが長年の常識だったのだが、最近ではそういうことを決めようと思うと決まらないから、まずはともかく趣旨だけを法律で決めることにした。役所の人は法律で決まっていることは守るから、結構これが効いて、いろいろなことが進んでいるわけだ。
国民はすでに福祉カットの覚悟ができている 「赤字の力」「理非曲直をただす力」の次に出てきたのは、「小さな政府へ」という大合唱だ。これが、「民営化」というスローガンになった。民営化を進めるとなると、今度は特殊法人を一挙につぶしてなくしてしまう。政府金融機関などは1つか2つくらいにしてしまうとか。そんな荒療治がどうやら通りそうだが、そこに福祉が含まれることになった。「高齢者の病院代を高くとるぞ」「年金にも税金をかけるぞ」とか。小さな政府だから福祉もカットするという話が出てきている。  これについては、マスコミや評論家は困っていると思う。というのは、昔は「そういうのは悪いことだ。何はともあれこれだけは確保しろ」なんていっていれば済んだからだ。でも最近はそういった意見もあまり見られない。それは、国民が「覚悟はできている」と言っているからだと僕は思う。  国民が「いいよ、それぐらいなら払うよ。病院代が高くなったっていいよ。病院に行かなきゃいいんだ」と覚悟しているのだ。そういう立派な高齢者がこれから出てくる。だから、今までのように型通りに「福祉国家の理想はどこへいった」なんて書いたって、今はダメなのだ。福祉予算カットまで来ても国民は覚悟ができているというあたり、僕は日本という国家に希望を持っている。
これからの改革に国費投入はもうやめよう 役所が法案をつくってくれないから、学者の発案とか、アメリカ人の持ち込み法案などがある。きちんと書き上げられたものもあるし、アイデアだけというものもあるが、ともかくアメリカのハゲタカファンドだか何だかわからないけれど、法案を書いて持ってくるわけだ。彼らは真面目に勉強するから、バランスシートはよく見ている。それから法律規則も全部勉強した上で、「こう変えればよい」というのを持ってくる。そうすると小泉首相は気に入って「この通りやれ、これは誰にも相談せずに国会で通してしまえ」という。  そういう法案を、その道の権威に相談すると、必ずその人は自分の私利私欲を混ぜてしまうから、「日本人に相談するな」というわけだ。小泉首相のそういうやり方に反発した人もいた。綿貫さんなど、自民党を離党した人はみんなそうだと思う。彼らが「やり方がよくない。おれは反対する」といったのは、たぶんそういうことだと思う。  でも小泉首相にしてみれば、そういうふうに反対してくれたら、叩くターゲットができてちょうど具合がいい。「かまわないからやれ」という。反対するほうは「これで(法案を)つぶせるせるだけの人数が集まった」といって、喜んでつぶしたが、小泉首相は実はこれを大喜びで待っていた。抵抗勢力がつぶしたのだから解散して「国民のみなさん、決めてください」と言った。すると国民は「私が決めるんだ」と喜んだ。昨年9月の総選挙はそういうことで進んだと僕は思う。  こうしたステップを経て、これからやる改革は「国費投入はやめよう」というものになった。もうすでに税金は十分使ったんだから。それから「責任を取れ」となった。そうすると、本当に変なことはしなくなるのだ。  だから国民は勉強しなければいけない。今までの税金無駄づかいの措置が通ってきたのは、誰が悪いのか。関係者はたくさんいる。名前を挙げれば挙げられるはずだ。それを情報公開すればいい。印鑑を押した人の名前だけ確認できればいいのだから。  実際、そういうふうに進んできている。「そこにもし汚職があれば、これは摘発しなければいけない」という流れになってきている。「この国費投入はやめろ」「責任者は誰か」「汚職があったのなら指摘して、二度と起こらないような再発防止措置をとらなければいけない」という方向へ、改革がどんどん進んできているのだ。

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